小田郡(読み)おだぐん

日本歴史地名大系 「小田郡」の解説

小田郡
おだぐん

面積:一六三・四一平方キロ
美星びせい町・矢掛やかげ

県の南西部に位置する。かつての小田郡のうち南半部が笠岡市、一部が井原市となったために、美星町矢掛町の二町で構成され、南は笠岡市、浅口あさくち鴨方かもがた町・金光こんこう町、倉敷市、東は吉備郡真備まび町・総社市、北は高梁たかはし市・川上かわかみ成羽なりわ町、西は同郡川上町、後月しつき芳井よしい町・井原市と接する。ほぼ全域が東流する小田川および美山みやま川・星田ほしだ川など小田川支流域で、北部は吉備高原に含まれる標高二五〇―五〇〇メートルの高地となっている。かつては北は川上郡、東は下道郡・浅口郡、西は後月郡、備後国に接し、南は海に面しこう島・真鍋まなべ島などの島嶼(笠岡諸島)が連なっていた。「和名抄」東急本国郡部に「乎太」、「延喜式」神名帳にはオダ、「拾芥抄」にはヲタの訓がある。以後の記述は、古代に成立し、笠岡市の成立まで続いた小田郡域を対象とする。

〔原始・古代〕

主要遺跡としては、旧石器時代の石器を大量に出土した笠岡市の片島かたしま遺跡、縄文前期から晩期にかけての土器を大量に出土した同市高島の黒土たかしまのくろつち遺跡・王泊おうどまり遺跡、古墳時代に三基の前方後円墳を含む首長墓群の営まれた同市山口の長福寺裏山やまぐちのちようふくじうらやま古墳群などがある。終末期の方墳で、石室全長一〇・五メートル、漆喰で表面を整えている矢掛町南山田の小迫大塚みなみやまだのこざこおおつか古墳、白鳳期に創建された笠岡市関戸せきど廃寺、製塩の行われていた前出王泊遺跡などがある。

「和名抄」は実成みなり拝慈はやし草壁くさかべ・小田・甲努こうの魚渚いおすな駅家うまや出部いずべの八郷をあげており、令制の区分では中郡にあたる。現在の矢掛町・笠岡市北部と西部、井原市の東辺地域およびいわゆる笠岡諸島の島々がそれにあたる。式内社としては「在田ありたの神社」「神嶋かんしまの神社」「鵜江うえの神社」の三社がある。郡領の地位を世襲した有力氏族としては小田臣氏がいる。天暦八年(九五四)七月二三日の式部省符、同年一二月二九日の官宣旨(いずれも類聚符宣抄)に、郡大領として小田遂津の名があり、小田臣豊郷が遂津の考解の替に任じられたとある。郡領の地位が譜第の名族をもって任じられていたことからすると、同氏は当初から郡領の地位を世襲していたと考えられる。この点から、郡少領以上の姉妹や子女をもって任じられる采女に関する史料にも注目しなければならない。天平勝宝四年(七五二)七月二二日の紫微中台牒(正倉院文書)には東大寺に対して摩登我経二巻の借用を請求した「小田采女」がみえる。このばあいは氏名をあきらかにしないが、おそらく小田氏から出仕したものであろう。

小田郡
おだぐん

「和名抄」諸本ともに訓を欠くが、東急本の同郡小田郷には「乎太」と訓を付す。現在の遠田とおだ郡の北方、涌谷わくや町・小牛田こごた町を含む一帯と推定される。「扶桑略記」天平二一年(七四九)正月四日条によれば、陸奥守百済王敬福が小田郡から産出した金九〇〇両を貢納している。「続日本紀」同年四月一日条にある聖武天皇の勅に、陸奥国小田郡に金出でたりとあり、この貢金により陸奥国は三年の調庸を免じられ、当郡は永免という恩典を与えられた(同年五月二七日条)。また貢上関係者の沙弥小田郡人丸子連宮麻呂が法名応宝を、神主小田郡日下部深淵が外少初位下を授けられている(同年五月一一日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報