日本歴史地名大系 「上淵村」の解説 上淵村かんぶちむら 大分県:大分郡庄内町上淵村[現在地名]庄内町渕(ふち) 上渕(かみぶち)・尾足(おたる)・中畑(なかはた)・屋敷(やしき)・高津原(こうづがはる)・上切畑(うえぎりはた)・下柿木(しもかきぎ)・上々渕(かみかんぶち)・小袋(こぶくろ)・馬場(ばば)・鹿子倉(かしくら)・古園(ふるぞの)など大分川の右岸、熊群(くまむれ)山(八〇四・九メートル)北麓に位置し、西は小平(こびら)村(現湯布院町)、対岸は武宮(たけみや)村。明応年間(一四九二―一五〇一)の四月三〇日付大友政親書状(土居文書)にみえる「たきの河内」は当地一帯と考えられる。明応年間の大友政親と義右父子対立の結果、政親は義右に追われ一時直入(なおいり)郡朽網(くたみ)に逃げた。その後事態解決として両者は起請文を交換し、政親は「たきの河内」まで進出したが、約束はほごにされたという。大永四年(一五二四)頃、義鑑は田北藤次に滝河内の内三貫五〇〇分を預けている(年未詳一二月一三日「大友義鑑知行預ヶ状写」田北次彦文書)。享禄四年(一五三一)一一月二四日大友義鑑が賀来神九郎に阿南(あなん)庄滝河内の内一〇貫分を(「大友義鑑知行預ケ状」柞原八幡宮文書)、同月二九日大津留次郎太郎に同じく二貫分を預けた(「大友義鑑知行預ケ状」大津留運文書)。 上淵村かみさばぶちむら 鹿児島県:出水市上淵村[現在地名]出水市昭和町(しようわまち)・緑町(みどりまち)・上鯖淵武本(たけもと)村の北、矢筈(やはず)岳南麓部、米(こめ)ノ津(つ)川の中流右岸に位置し、北は下鯖淵村。古くは下鯖淵村・六月田(ろくがつだ)村と一村で鯖淵村と称していたが、寛永(一六二四―四四)頃に三ヵ村に分村したという(出水風土誌)。「出水名勝志」は枝村として大田(おおた)・松尾(まつお)・井上(いのうえ)・萩之段(はぎのだん)・田之頭(たのかしら)・新開・猪木・鯖淵・軸谷(じくや)の九ヵ村をあげる。出水八ヵ外城のうちの軸谷外城があり、郷士が屯田し、宝永五年(一七〇八)の軍役高帳では軸谷衆中高三二石・人躰二七人。庄屋所は井上に置かれていた。文保元年(一三一七)七月晦日の薩摩国御家人交名注文(旧記雑録)に和泉(いずみ)庄の御家人として鯖淵名主弁済使がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by