下三谷村
しもみたにむら
[現在地名]伊予市下三谷
現伊予市北部の平地村で、寛永一二年(一六三五)の替地以来大洲藩領。東は上三谷村、西南は上吾川村、北部は松山藩領で大谷川を境とし、一部松山藩領横田村(現伊予郡松前町)に接している。
三谷の地名は、谷上山が古くから田神様ともよばれて農民の崇拝するところであったからその山麓を御谷と称したことに由来するともいわれ、地形上三つの谷の合流点にあたっているから、ともいわれる。
下三谷村は条里制の施行されていた地域で、北十四・中十四・南十四・十八・三反地・四反地・五反持居・八反地・九反前・十合原などの小字が残っている。「和名抄」記載の吾川郷は現在の下三谷分にも延びていたものと思われる。
鎌倉初期、この地域一帯は平家党の高市氏が勢力を占めていたと思われ、養和元年(一一八一)高縄山に挙兵した河野通信は文治元年(一一八五)にこの地で高市俊儀を敗走させている。
下三谷村
しもみたにむら
[現在地名]名張市下三谷
八幡村の南西、名張川および山を隔てて立地し、同じ谷筋の南に短野村が続く。地形的に短野村と関係が深そうにみえるが、短野が黒田庄大屋戸の出作として開発されたのに対し、下三谷は薦生庄の出作として開かれた。薦生牧の南限である「高峯」(康保元年一一月二三日「伊賀国夏見郷薦生村刀禰等解案」東大寺文書)が薦生・下三谷間の山をさすと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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