横田村(読み)よこたむら

日本歴史地名大系 「横田村」の解説

横田村
よこたむら

[現在地名]陸前高田市横田町

竹駒たけこま村の北西にあり、南は矢作やはぎ村、北は世田米せたまい(現気仙郡住田町)気仙けせん川に沿う農山村。気仙川は当村では横田川とよばれ、槻沢つきざわ小坪こつぼ平貝ひらがい本宿もとじゆくなどの支流を合せてほぼ中央部を南流し、横田盆地を潤す。大原千葉系図(千葉文書)によれば、文明七年(一四七五)三月東山大原氏と気仙矢作氏が横田の地で合戦したとある。正保郷帳に村名がみえ、田二一貫五八三文・畑三一貫三七文、ほかに同所新田五一文、柴山と注記される。宝永二年(一七〇五)の人数改では人頭一二〇、総人数一千二七一、名子一二・水呑六八、鉄砲数一八(気仙史料)。「封内風土記」の家数約二〇六。橋上はしのうえ・猿楽・沙子田すなごだ・本宿・堂沢どうのさわの小名を記す。元禄三年(一六九〇)の本判は六一枚二分四厘二毛(気仙史料)

横田川では慶長(一五九六―一六一五)から寛永(一六二四―四四)頃まで三吉砂金を産し、本宿・天南沢てんなんざわがその中心であったが、のちしだいに北方に進み金成かんなり袋沢ふくろさわ付近でも採集された。このために川筋が荒れてしばしば洪水が起こっている。寛永一四年冬の出水で川道が西から東に変わり、下流の竹駒・今泉いまいずみ高田たかたの各村にも被害を及ぼしたので、横田流れという語さえ生じたという(気仙史料)。「横田村誌」には、寛永一九年の検地以来、当村に大屋と称する旧家が平貝の松田家、平栗ひらぐりの菅野家、堂の沢の泉田家、槻沢の荻原家、橋の上の鎌倉家、百目木どうめきの畠山家、宇南沢うなんざわの村上家の七軒あったことを記す。いずれも中世以来の草分で、竹駒の玉山たまやま金山、矢作の雪沢ゆきさわ金山や村内の金採掘にかかわる旧家とされる。また慶長一九年三月一一日付の釜(鎌)石修理宛の国老佐々若狭の黒印状(佐々木文書)によれば、修理は釜石の陣後当地の笠島与兵衛方にいたが、先年の功により伊達政宗から由緒料として七九〇文の地を与えられ、代りに砂金二両を献上した。


横田村
よこたむら

[現在地名]遠野市東館町ひがしだてちよう材木町ざいもくちよう中央通ちゆうおうどおり・遠野町とおのちよう大工町だいくちよう新穀町しんこくちよう上組町かみくみちよう下組町しもくみちよう穀町こくちよう新町しんまち六日町むいかまち

東は青笹あおざさ村、北は羽根通はねとおし村・畑中はたけなか村など、西は新里につさと村、南は来内らいない村。早瀬はやせ川が北端をほぼ西流し、やがて村の西を南流するさるいし川に合流する。また来内川が南から村に入って西流して同川に注ぐ。北上高地の盆地に位置し、古来内陸と三陸沿岸地方との物資の交流の地で、地内に発達した遠野城下を遠野街道・大槌おおつち街道が通った。

文治五年(一一八九)源頼朝が藤原氏を滅ぼしたのち阿曾沼広綱に遠野一二郷を与えたが(阿曾沼興廃記)、このうちの上六郷に当地も含まれたと伝える。「内史略」によれば、永享一一年(一四三九)足利持氏を討った折の軍功により、横田ほかが将軍足利義教から南部義政に宛行われた。天正年間(一五七三―九二)光興寺こうこうじの横田城(護摩堂城)を放棄した阿曾沼広郷は当地鍋倉なべくら(三四三・九メートル)に築城した(阿曾沼興廃記)一日市ひといち町・六日むいか町などが賑ったと伝える。慶長五年(一六〇〇)の阿曾沼氏没落後は南部氏の領有となった。


横田村
よこたむら

[現在地名]益田市横田町

高津川と匹見ひきみ川の合流点右岸一帯の平野に位置し、西は向横田むかいよこた村、北は安富やすどみ村。地名は出雲の横田大明神を勧請したからとか、長い田が横に存在するからという(石見八重葎)江戸時代の支配の変遷は高津村と同じ。元和三年(一六一七)の竹村丹後守引渡証文(亀井家記稿本)に村名がみえ、高九〇七石余。古高九〇七石余、寛永一四年(一六三七)の検地高九七二石余(万手鑑)正保国絵図では高九〇七石余。慶長七年(一六〇二)大久保長安が当地を巡検した折、村民が一致協力して川越しに奉仕したので、喜んだ長安は以後町屋敷一ヵ所につき、表幅六間・奥行二五間の屋敷六一ヵ所の年貢米を免じた。これは元和三年津和野藩主亀井政矩により裏付けられ、寛永一四年の棹入れの際町数三町五反余、高二八石七斗余が永免除と定められ、明治維新に及んだ(益田市史)

当村の平野は高津川に堅固な堤防を造ることによって水田の開発が可能となったが、慶長七年から昭和一八年(一九四三)まで洪水は一八回にも及び、その度ごとに土地作りを強いられた。農民は土地作りのために小野おの村・梅月うめつき村・ひだりやま村などに草の盗み刈りに出るようになり、文化一二年(一八一五)左ヶ山村との間に紛争が起こった。また洪水の度に高津川の流れが移動するため向横田村との境界争いが絶えなかった(益田市史)


横田村
よこたむら

[現在地名]高岡市横田・横田本町よこたほんまち・横田町一―三丁目・美幸町みゆきまち一―二丁目・昭和町しようわまち一―三丁目・本郷ほんごう一―二丁目・瑞穂町みずほまち京町きようまち大町おおまち川原町かわらまち金屋町かなやまち金屋本町かなやほんまち内免ないめん一―二丁目・中島町なかじままち宮田町みやだまち千石町せんごくまち永楽町えいらくまち扇町おうぎまち一―二丁目・羽広はびろ二丁目・西町にしまち博労本町ばくろうほんまち

小矢部川と千保せんぼ川に挟まれ、高岡町の西方に位置。村名は横田屋宗右衛門がこの地を開いたとの伝承による。文亀三年(一五〇三)二月一二日室町幕府奉公衆の大館持房があげた自己の所領のなかに越中横田がある(「大館持房行状」三浦周行所蔵文書)。天正一〇年(一五八二)佐々成政により横田・四屋川原よつやかわらが諏訪三郎兵衛の知行地となった(「知行宛行状」佐野家文書)。文禄五年(一五九六)本願寺准如は「射水郡横田之内羽岡・河原村講衆中」に、銀子一〇両の請取消息を出している(「准如上人文案」西本願寺蔵)。同年前田利長により当村の少次が福田ふくだ村肝煎に命じられている(「肝煎申付状」木倉氏筆写史料)。慶長一六年(一六一一)前田利長は礪波となみ西部金屋にしぶかなや村から鋳物師七人を移住させ、当村のうちで長さ一〇〇間・幅五〇間の土地を与えて鋳物工房五ヵ所の開設を許し、これが高岡金屋町の起源となった。元和三年(一六一七)の増免申付状(「微妙院様御印之物写」川合家文書)では高二五石余・免三ツを五ツに増免すること、同六年には当村内の高岡明屋敷二五石余の免を七ツに定めることが申付けられた。


横田村
よこたむら

[現在地名]横田町横田

村の中央部を斐伊川が西流する。西は大曲おおまがり村、南は下横田村、東はすみ村、北は標高四〇〇―六〇〇メートルほどの山々が迫る。天保郷帳などでは横田村として把握されているが、「雲陽大数録」には出雲町数三〇ヵ所の一つに横田があげられている。戦国期に北西の高鍔たかつば山にふじ城が築かれると、城山の足下と斐伊川を挟んだ南の河原に中村なかむら市場が移設され、六日むいか市場・おお市場として急速に町場が形成されていった。廃城後も同地は町場として発展し、町の周囲の斐伊川流域の沖積地に位置する水田地帯のみを横田村と称する場合もある。「出雲国風土記」や「和名抄」に載る仁多郡横田郷の遺称地。中世は横田庄に含まれた。

富田とだ(現広瀬町)に入った堀尾吉晴は、慶長六年(一六〇一)国内巡郷の途次六日市の五反田屋に宿泊している。五反田屋は以後富田屋と改めた(「杠日記」杠家文書)。正保国絵図には市場村とみえる。


横田村
よこたむら

[現在地名]倉吉市横田

今倉いまくら村の西、国府こう川左岸にある。天文一二年(一五四三)七月七日の尼子晴久書状(閥閲録)に「久米郡之内横田」とみえ、晴久から前年に与えられていた地の替地として横田七五石の地が赤穴満五郎(久清)に宛行われた。藩政期の拝領高は六六六石余、本免四ツ四分。鵜殿氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では七三四石余、竈数五五、国司大明神が記される。幕末の六郡郷村生高竈付では生高七三五石余、竈数五六。藪役銀三匁二分・山役米六斗余・川役米二斗余を課されていた(藩史)

文政三年(一八二〇)から当村など九ヵ村と尾原おわらなど三ヵ村との間で草刈場国府野(久米ヶ原)の入会示境をめぐる争いがあり、のち当村方に国府村も加わった。


横田村
よこたむら

[現在地名]金山町横田

越川こすがわ村の西一六町にあり、只見ただみ川と山入やまいり川の合流点に位置し、中世から山内氏の城下町として開け、近世は伊北いほう街道の駅所として発展した。「異本塔寺長帳」によれば、享徳二年(一四五三)松本右馬允が伊南いな郷の河原田左近大夫重直の応援を得て、横田城主山内大和守俊光の支城小林こばやし(現只見町)堀金左京の館を攻略したとある。文治五年(一一八九)以来源頼朝の御家人山内季基の居村といわれるが(「横田山内系譜」片山家文書)、山内宗家が実際に伊北郷に居住したのは応永一〇年(一四〇三)以降と考えられている(金山町史)


横田村
よこたむら

[現在地名]美土里町横田

きた村の南に位置し、東は原田はらだ(現高宮町)、西の村からの本村川が東流し、集落はその沖積地に集まる。北に大狩おおがり(五九一・一メートル)、南に小津古こつこ(五九四・六メートル)がそびえ、小津古山東側を通る石見路(出羽越)が本村川と出会って西行する。「芸藩通志」には「広一里十二町、袤一里十町、南北山連り東西少し開けり」とある。地名は長州はぎ(現山口県萩市)伊予いよ八幡神社神主河野家蔵の永正一三年(一五一六)七月二一日付毛利興元判物(「閥閲録遺漏」所収)に「去十七日於横田松尾要害合戦」とみえる。


横田村
よこたむら

[現在地名]袖ケ浦市横田、木更津市横田飛地よこたとびち

百目木どうめき村の北西方、小櫃おびつ川右岸に位置し、久留里くるり道が通る。中世は横田郷に含まれた。天正一九年(一五九一)閏正月一〇日の畔蒜庄横田郷検地帳(高浦家文書)がある。同年の知行宛行状(古文書集)に村名がみえ、三〇〇石が坂部領となった。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳では高二千一〇〇石。寛永二年(一六二五)の知行宛行状では横田郷内二七六石余と横田堀込開発地の一四石余が旗本坂部領となる。


横田村
よこたむら

[現在地名]智頭町横田

木原きのわら村の南に位置し、集落は土師はじ川の左岸に発達、同川を挟み東方は長瀬ながせ村・三明みあけ村。文明一二年(一四八〇)二月一五日、木原善棟が息子おき法師に譲り渡した木原名の南境は「いとい谷」の溝であった(「木原善棟譲状」因幡志)。この「いとい谷」は木原村の南端岩谷いわだに(古くは岩井谷と称していたという)のことと思われ、享禄二年(一五二九)四月一九日、木原元信が木原亀松に譲り渡した木原名の南限も「ユワイ谷横田山々ネチミソ」を境としている(「木原元信譲状」因幡民談記)


横田村
よこたむら

[現在地名]二宮町横田

おき村の北、五行ごぎよう川左岸の平坦地にあり、東は物井ものい村。桜町さくらまち領三ヵ村の一。慶長六年(一六〇一)真岡藩領、寛永九年(一六三二)相模小田原藩領となり、元禄一一年(一六九八)一部が同藩主大久保氏の分家旗本宇津氏に分知された。天明三年(一七八三)小田原藩領分は幕府領となり旗本宇津領との二給で幕末に至る。寛永六年の田方検地帳(尊徳全集一〇)によれば、田方五八町四反余、うち上々田一二町七反余・上田一八町六反余・中田一四町八反余・下田一一町七反余・下々田四反余、同年の畑方検地帳(同書)によれば畑屋敷反別一九町六反余、うち上畑一一町余・中畑四町余・下畑二町五反余・屋敷一町九反余、ほかに田九反余・畑三町余があった(同書)


横田村
よこたむら

[現在地名]氷上町横田

稲継いなつぎ村の西に位置する。山陰道(京街道)が通り、播磨への往還が分岐する。寛永一〇年(一六三三)三田藩領となり幕末に至る。正保郷帳に村名がみえ田高七八四石余・畠高五四石、芝山・林あり。「丹波志」によると高八三八石余のうち土無し高三一三石余、家数五〇。天和二年(一六八二)より三田藩領氷上一〇ヵ村の代官所が設置されたと伝えられる。用水は稲継村に同じ。明和八年(一七七一)の旱魃時に佐治さじ(加古川)上流に水車を新たに架けた柿芝かきしば町と水論、同川の水利権を守った。低地のため水害が多く、安永年間(一七七二―八一)より当村と母坪ほつぼ村・田路たじ(現柏原町)の三村で悪水抜溝の工事に着手し、寛政七年(一七九五)完成。


横田村
よこたむら

[現在地名]園部町横田

明治九年(一八七六)に上横田村・下横田村・南横田村が合併してできた村。

北はほぼ園部川を境にして上木崎かみきざき村と黒田くろだ村に対し、西は船坂ふなさか村・大坪おおつぼ村、南は東半田ひがしはんだ村・西半田村、東は園部村・おお村。西方にわずかに丘陵があるほかは平坦地である。東流する園部川の上流が上横田村で、下流の下横田村を篠山街道が横断する。二村の南にある南横田村は小字温井ぬくいを中心に人家が密集し、温井村と称することが多かった。


横田村
よこたむら

[現在地名]東脊振村大字大曲おおまがり字横田・永田ながた

田手たで川の東部、低い丘陵地に位置する。蒙古合戦の戦功に関して正応二年(一二八九)三月一二日の榊文書(肥前旧事)に「筑前榊定禅領主西順(中略)畠地東郷横田村牧原」とある。

村内に弥生時代の遺跡があり、発掘された甕棺や箱式石棺の中から鉄剣や鉄戈が発見された。

天文三年(一五三四)四月、中国の覇者大内義隆の部将陶道麟は大軍を率いて少弐氏平定のため東肥前に侵入してきた。「九州治乱記」によると、この時少弐資元・冬尚父子は多久の梶峰たくのかじみね城にいたが、少弐恩顧の馬場・横岳一族や姉川・竜造寺一門は資元父子をさっそく城原の勢福寺じようばるのせいふくじ(現神埼町)に迎え入れた。


横田村
よこたむら

[現在地名]長野市篠ノ井横田

現篠ノ井の南東。千曲川に沿い、対岸は現更埴こうしよく雨宮あめのみやに接する。永禄四年(一五六一)川中島合戦の雨宮渡は対岸にあたる。「参考源平盛衰記」信濃横田河原軍事の条に「越後国住人城太郎平資職(中略)木曾冠者義仲ヲ追討ノ為ニ養和元年六月二十五日(中略)信濃国ヘ打越テ筑摩河ノ耳、横田河原ニ陣ヲトル」とあるのを地名の初見とする。同じ事柄を「平家物語」では「横田の庄に陣を取る」とみえる。

千曲川の自然堤防上には観音寺かんのんじ遺跡があり子持勾玉が出土した。この遺跡の近くに富士の宮ふじのみやがある。中世、藤長御厨ふじながみくりやの神庫跡と伝承されている。応永七年(一四〇〇)大塔おおとう合戦に小笠原長秀はこの地に陣をとった(大塔物語)


横田村
よこたむら

[現在地名]中島町横田

熊木くまき川中流北岸の村で、対岸は山戸田やまとだ村、東は宮前みやのまえ村。貞応三年(一二二四)一〇月一日熊来庄立券文写(尾沢文書)に「横田里」がみえ、不作田二反とある。永禄二年(一五五九)九月二五日の釶打熊野権現奉加札(藤津比古神社蔵)には「横田村」から米三袋五つが寄進されたと記されていたが(能登志徴)、現在は判読できない。


横田村
よこたむら

[現在地名]山武町横田

沖渡おきわたし村の東に位置し、作田さくだ川の支流さかい川が流れる。元禄郷帳に村名がみえ、埴谷はにや村枝郷とある。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では埴谷組に属し、高二八〇石、高岡藩領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高三〇七石余、家数四八。享和四年(一八〇四)の武射・山辺両郡村々高帳では高岡藩領のほかは幕府領一九石余。


横田村
よこたむら

[現在地名]松前町横田

現松前町南部の農耕地帯。村を東西に流れる大谷おおたに川以南はほぼ正方形をなして伊予市域に篏入しているが、これは古代の条里制の坪割の名残をとどめるものである。大谷川以北にも条里制の名残が認められる。この村は古く大溝おおみぞ村とよばれ、慶長六年(一六〇一)に加藤嘉明が家臣に宛てた知行状(木村徳太郎氏所蔵文書)にみえる。

<資料は省略されています>

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の伊予郡の項に「大溝村 日損所」とあり、高八〇〇石、うち田七六二石六斗五升、畠三七石三斗五升と記すが、五〇年後、元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記に「高八百石 横田村右は大溝村と申候」とあるので、この間に村名が改められたものであろう。


横田村
よこたむら

[現在地名]大分市横田

きた村の東に位置し、北は別府湾。集落は海岸線に並行に走る浜堤列上にある。「肥後国誌」によると「八幡林村・野間口村・此間」などの小村がある。江戸時代を通じて肥後熊本藩領で、関手永のうち。慶長六年(一六〇一)五月三日の大在井村・横田村宛加藤清正掟書(安達文書)によると、隣郷の百姓との喧嘩、田畑耕作の放棄などを禁じ、逃亡した百姓は帰村させること、他郷からの逃散百姓を置かないこと、年貢等の負担で定められた額以外は代官・給人からの命でも納めてはならないことなどが定められている。寛永一一年(一六三四)の熊本藩豊後国郷帳によると高四二〇石余。


横田村
よこたむら

[現在地名]分水町横田

南を信濃川が北東へ流れ、東は小池こいけ(現燕市)、西は熊森くまのもり村。元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に村名がみえ、高六五八石五斗余。初め三条藩稲垣氏領で、正保国絵図では幕府領。のち村上藩領となり貞享元年(一六八四)の同藩領分郷村高辻帳では高九二四石八斗余。宝永六年(一七〇九)上知され翌七年高田藩領、寛保元年(一七四一)陸奥白河藩領、幕末には伊勢桑名藩領。「白川風土記」によれば家数二六七。信濃川堤を出羽へ抜ける道が通る。小池・道金どうきん(現燕市)との郷蔵が置かれた。当村付近は信濃川が東へ大きく折れる個所に当たるため、しばしば大水害に見舞われた。


横田村
よこたむら

[現在地名]大和郡山市横田町

櫟枝いちえだ村西方に所在。環濠集落。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の添上郡内に横田の荘名が初見する。久安四年(一一四八)九月の東大寺領大和国雑役免顛倒庄注進状(東大寺文書)にも「添上郡南横田庄十町(中略)北横田庄六町」とみえ、西大寺田園目録に「添上郡京南五条二里十六坪内一段字横田」と記す。「経覚私要鈔」「多聞院日記」「大乗院日記」などにも関係記事が所見する。


横田村
よこたむら

[現在地名]武蔵村山市本町ほんまち三―四丁目

狭山丘陵南麓に位置し、西方が三ッ木みつぎ村にわずかに接するほかは中藤なかとう村に囲まれる。田園簿に村名はなく中藤村に属していたが、寛文六年(一六六六)中藤村に起きた山境争論では「横田村長尾藤四郎様」とみえ(「山境論訴状」渡辺家文書)、当村が中藤村から独立し、領主は旗本長尾藤四郎(景明)であったことがうかがえる。したがって田園簿の中藤村のうち長尾庄右衛門知行九六石が当村分であろう。景明の後を継いだ景澄(庄右衛門・藤四郎)が寛文九年に采地を廩米(扶持米)に改められたため幕府領となり(寛政重修諸家譜)、同一〇年に代官中川八郎左衛門により検地が実施された(「反別指出帳」乙幡家文書)


横田村
よこたむら

[現在地名]松本市横田

おお村の南、女鳥羽めとば川の東に接する平坦な村である。

天正検地の際は七八石九斗五升三合と高付けされている。「信府統記」によると御朱印高は天正検地と同高、享保九年(一七二四)当時の石高は二〇四石四合七勺と倍増している。寛文年間(一六六一―七三)の田地は一三町六段六畝二七歩、畑地は六町七段三畝一五歩。慶安検地の時、本百姓一九、門百姓四。水田の用水は浅間あさま村からの川、山辺やまべ村からの湯川、用水池である横田堤・雁金かりがね堤・大村ノ堤・堂田どうだ堤などの末流を使っていた。


横田村
よこたむら

[現在地名]飯塚市横田

建花寺けんげいじ川の南側に位置し、北の対岸は川津かわづ村、南は枝国えだくに(現穂波町)。永禄七―一〇年(一五六四―六七)頃と推定される一〇月一九日の内藤隆春知行注文(萩藩閥閲録三)に「加摩郡 一横田・伊川弐ケ所 参拾町」「以上秋月種実抱之」とあり、当地は嘉麻かま郡に属し、毛利氏家臣内藤氏の所領で秋月氏が実効支配していた。小早川時代の指出前之帳では穂波ほなみ郡横田村の田三一町五反余(分米三一三石余)・畠一町四反余(分大豆九石余)


横田村
よこたむら

[現在地名]玉名市横田

伊倉いくら台地の南東とその南の沖積平野に立地し、東は青野あおの村、南は野辺田のべた(現玉名郡天水町)、西は片諏訪かたすわ村、北は宮原みやばる村に接する。慶長九年(一六〇四)二月の検地帳には「伊倉之内横田村」とみえ、田二一町四畝余・畠屋敷七町三畝余・屋敷二二筆、下ケ名にはしのつら・神田ノ下などが記される。小田手永に属した。元禄国絵図には「伊倉北方之内横田村」、「国誌」にも北方きたがた村の内と注記され、伊倉北方村から分れた村のなかでは飛地となっている。


横田村
よこたむら

[現在地名]甲佐町横田

長楽ちようらく(別名清正公山、一六〇メートル)の北山麓にあり、東は標高五〇―二〇〇メートルの丘陵地帯が続き、西は大町おおまち村、北東は中横田なかよこた村、南は下豊内しもとようち村と接する。下横辺田しもよこべた村の分村で、元禄国絵図に「下横部田村之内横田村」とみえ、近世は甲佐手永に属した。「国誌」に「鬼丸村六反村立ハヘ村等小村アリ」とあり、宝暦一二年(一七六二)の甲佐手永手鑑では竈数二四・男五七・女五二、牛五・馬九、本高三六七石六斗余、田一六町二反余・畑四町八反余、新地田畑三町二反五畝余、永荒畑四反三畝余、諸開(一毛畝物・上畝物・野開・請藪)六反四畝余と茶床がある。


横田村
よこたむら

[現在地名]八東町横田

茂田もだ村の西方にある同村の枝郷。享保一九年(一七三四)以前に領内限りの一村として分離、独立。同年の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高一三〇石余、竈数二三。「因幡志」では家数一八、産土神は八大荒神(現横田神社)。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高一二八石余、竈数一三。乾氏の給地があった(給人所付帳)。藪役銀三八匁余を課されていた(藩史)


横田村
よこたむら

[現在地名]奈良市横田町

茗荷みようごう村の東方に続く街村。「大乗院雑事記」明応二年(一四九三)一〇月二四日条に「卅二文ヨコタ 廿五文大野」とある。和田わだ村からの分村。元禄郷帳の村高は一〇六・四四四石。「和田之枝郷」と注記する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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