日本歴史地名大系 「横田村」の解説
横田村
よこたむら
- 岩手県:陸前高田市
- 横田村
横田川では慶長(一五九六―一六一五)から寛永(一六二四―四四)頃まで三吉砂金を産し、本宿・
横田村
よこたむら
- 岩手県:遠野市
- 横田村
東は
文治五年(一一八九)源頼朝が藤原氏を滅ぼしたのち阿曾沼広綱に遠野一二郷を与えたが(阿曾沼興廃記)、このうちの上六郷に当地も含まれたと伝える。「内史略」によれば、永享一一年(一四三九)足利持氏を討った折の軍功により、横田ほかが将軍足利義教から南部義政に宛行われた。天正年間(一五七三―九二)
横田村
よこたむら
- 島根県:益田市
- 横田村
高津川と
当村の平野は高津川に堅固な堤防を造ることによって水田の開発が可能となったが、慶長七年から昭和一八年(一九四三)まで洪水は一八回にも及び、その度ごとに土地作りを強いられた。農民は土地作りのために
横田村
よこたむら
小矢部川と
横田村
よこたむら
村の中央部を斐伊川が西流する。西は
横田村
よこたむら
- 鳥取県:倉吉市
- 横田村
文政三年(一八二〇)から当村など九ヵ村と
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
村内に弥生時代の遺跡があり、発掘された甕棺や箱式石棺の中から鉄剣や鉄戈が発見された。
天文三年(一五三四)四月、中国の覇者大内義隆の部将陶道麟は大軍を率いて少弐氏平定のため東肥前に侵入してきた。「九州治乱記」によると、この時少弐資元・冬尚父子は
横田村
よこたむら
現篠ノ井の南東。千曲川に沿い、対岸は現
千曲川の自然堤防上には
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
現松前町南部の農耕地帯。村を東西に流れる
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の伊予郡の項に「大溝村 日損所」とあり、高八〇〇石、うち田七六二石六斗五升、畠三七石三斗五升と記すが、五〇年後、元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記に「高八百石 横田村右は大溝村と申候」とあるので、この間に村名が改められたものであろう。
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
南を信濃川が北東へ流れ、東は
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
- 東京都:武蔵村山市
- 横田村
狭山丘陵南麓に位置し、西方が
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
- 福岡県:飯塚市
- 横田村
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
横田村
よこたむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報