日本歴史地名大系 「伊予市」の解説 伊予市いよし 面積:五六・二九平方キロ松山平野の西南部に位置し、西は伊予灘に臨む。市域の北部は平地であるが、南部から東部にかけては四国山地の一部をなしている。古代の松山平野には和気(わけ)・温泉(おんせん)・久米(くめ)・浮穴(うけな)・伊予の五郡があったが、伊予市域はその伊予郡の南部、郡域の大半を占める。「伊予国風土記」逸文の聖徳太子の立てた道後温泉碑文の中に「法興六年十月、歳丙辰にあり。我が法王大王と恵慈の法師及葛城臣と、夷与(いよ)村に逍遥(あそ)び」とある夷与は伊予と同じで、伊予郡付近は国内で最も早く開けた地域である。「和名抄」記載の郷名のうち吾川(あがわ)郷が市域の北部の上吾川・下吾川付近、石田(いしだ)郷は南部の山崎(やまざき)地区と推定される。〔原始〕市の東北部、行道(ぎようどう)山(四〇三・一メートル)の北部山麓線に沿って一〇ヵ所余の弥生式土器および石斧・石包丁などの出土地がある。ここはまた古墳時代との複合遺跡で、数多くの円墳などがあり、埴輪や祝部土器・玉・鏡・剣などの出土品も多い。上吾川にある伊予岡(いよおか)八幡神社古墳群は県下でも数少ない集合古墳群で県指定史跡となっている。市場(いちば)のかわらがはなの窯跡は八世紀頃と推定される登窯跡で、製陶技術の進んでいたことが知られる。〔古代〕条里制は松山平野に広く実施されたが伊予市でも吾川・下三谷(しもみたに)や森(もり)地区にその一部の痕跡がみられる。一の坪(いちのつぼ)・三反地(さんだんじ)・四反地(したんじ)・北十四(きたじゆうし)・南十四などの小字が残っている。「国造本紀」によると伊予国には五国造が置かれており、その一つの伊余国造に速後上命が任ぜられている。伊予郡ができてからの郡司はおそらくその子孫が任ぜられたのであろうが、郡家の所在も不明である。伊予郡には「延喜式」神名帳に四座あり、名神大の伊予(いよ)神社のほか伊曾能(いその)神社・高忍日売(たかおしひめ)神社・伊予豆比古命(いよつひこのみこと)神社があげられている。このうち伊予神社については式内社には現伊予郡松前(まさき)町神崎(かんざき)の伊予神社をあてる説が有力であるが、いずれにしても松山市居相(いあい)町の伊予豆比古命神社を除き式内社の所在は伊予市を含む古代伊予郡の北東部に集中し、この一帯が伊予郡の中心であったと推定される。 伊予市いよし 2005年4月1日:伊予市と伊予郡中山町・双海町が合併⇒【中山町】愛媛県:伊予郡⇒【双海町】愛媛県:伊予郡⇒【伊予市】愛媛県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊予市」の意味・わかりやすい解説 伊予〔市〕いよ 愛媛県中部,伊予灘に面し,松山平野の南西部から内山盆地に広がる市。 1955年郡中町と南山崎村,北山崎村,南伊予村の3村が合体して市制。 2005年中山町,双海町と合体。初め松山藩領,寛永 12 (1635) 年以後は大洲藩領。中心市街地の郡中は江戸時代からの港町。カツオやサバなどを主原料とする花がつおの生産額は日本有数。また四国山地を控えて製材業が発達。農村部では山麓の傾斜地を利用して,ミカンを主に果樹を,平地ではため池灌漑による米,麦を,新川砂丘では野菜を栽培する。 JR予讃線と内子線が分岐する向井原駅があり,国道 378号線と 56号線が予讃線と内子線にそれぞれ並走。群中港から伊予鉄道郡中線が松山に通じる。松山自動車道が市中央を通る。面積 194.44km2。人口 3万5133(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by