日本歴史地名大系 「短野村」の解説 短野村みじかのむら 三重県:名張市短野村[現在地名]名張市短野下三谷(しもみたに)村の南、谷間の斜面に集落があり、耕地は少なく、文字どおり短い野である。黒田(くろだ)本庄内で、大屋戸(おやど)の出作として開かれた地と思われる。嘉元二年(一三〇四)正月一四日の黒田庄有得人交名注進状案(東大寺文書)によれば、「ミシカノ」に一人の有得者がいた。大屋戸―短野間の山越えの道は板蠅(いたばえ)杣の発達とともに繁く用いられたと思われ、山上の浮(うき)池という大きな池は板蠅杣で切出した巨材を貯木するため、東大寺初代別当良弁が築いたと伝承される。僅少の耕地にこれほどの大池は不要なため、伝承はおそらく事実に近いと思われる。短野は大屋戸とともに大江氏と関係が深く、大江氏の菩提寺といわれる大江(おおえ)寺の坊跡が多数あり(三国地志)、大江定基の供養塔と伝え、鎌倉時代後期と推定される五輪塔も現存する。 短野村みじかのむら 和歌山県:伊都郡かつらぎ町短野村[現在地名]かつらぎ町短野滝(たき)村の東に位置し、中世、高野山領官省符(かんしようふ)庄下方に属した。室町時代初期頃の高野政所下方田畠在家帳目録(又続宝簡集)に「下方山村分」として短野がみえ、欠年の官省符下方并河南二村在家帳(同集)には在家一五宇とされている。慶長検地高目録に「端野村」とみえ、村高は四〇三石余、小物成三・九九二石。丁ノ町組に属し、宝永五年(一七〇八)の伊都郡丁之町組大指出写(中谷正敏氏蔵)によると、当時の村高は四一〇石余、家数六四、寺一、堂二(観音堂・地蔵堂)、堂屋敷一、池五、井手五。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by