日本歴史地名大系 「与楽寺跡」の解説
与楽寺跡
よらくじあと
旧土佐街道(東街道)の赤岡橋を南へ渡って西側にあった寺で、現在民家の後方に片寄せた墓石にその存在が知られる。萩原山教憧院と号し、真言宗山城醍醐報恩院末であったが、明治四年(一八七一)廃寺となった。
「土佐州郡志」によると開基は法印長尊というが、寛永一九年(一六四二)の火災で旧記を焼失し縁起など不明。香宗我部氏の外護をうけて、中世以来近郷随一の大寺院であった。長宗我部元親の弟で香宗我部家を継いだ親泰も、実父覚世国親・長子親氏の追善供養を当寺に託した。文禄二年(一五九三)四月八日付の香宗我部親泰の与楽寺宛書状(香宗我部家文書)に「右買地壱段月渓芳心為月牌貴寺付置候、若本主請返候者其俵物ニ而別仁之下地買取可有知行候、自然於御寺家懈怠於在之者深々
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報