赤岡村(読み)あかおかむら

日本歴史地名大系 「赤岡村」の解説

赤岡村
あかおかむら

[現在地名]赤岡町 江見えみ町・寿ことぶき町・ほん町・もと町・弁天通べんてんどおりなか町・よこ町・きた町・みなみ町・さいわい町・日の出ひので町・弥生やよい町・みなと町・さかえ

北と西を香宗こうそう川、南を土佐湾に囲まれた浜堤(砂丘)上の村で、東西一・六五キロ、南北〇・五キロ。東のみ陸続きで岸本きしもと(現香我美町)がある。江戸時代以前は香宗川北岸の須留田するだ村とは橋一つでつながり、北から入って来た土佐街道(東街道)が途中より東に折れて村の東半分を貫いて岸本浦に抜ける。

浜堤は北と南の二条に分れ、北の方は標高約八メートル、南の方は約七メートル、堤は有史以前の生成だが、村落形成の時期は不詳。村名は長宗我部地検帳のうち天正一六年(一五八八)作成の香宗分地検帳の第二帳に「赤岡ノ村」および中浜・西にし浜の塩浜がみえるほか、同一五年作成の大忍庄地検帳第一帳に「今在家村」と「赤岡分今在家浜」に属する塩浜が記される。今在家いまざいけ村は現在の江見町で、大忍おおさと庄から入込んだ者が多かったのだろう。村内の地目はほとんどが「下々やしき」で、赤岡ノ村に約一三〇筆、今在家村に約三〇筆。西浜にはエビス堂を中心に平均五代の広さの市場屋敷一五筆が並ぶ。香宗川北岸に耕地をもつ農民、漁労や製塩に従事する者、商人・手工業者などが、香宗川に面した側からしだいに居住域を拡大し、発展しつつある様子をうかがうことができる。

慶長五年(一六〇〇)兄一豊に先んじて入国した山内康豊は「かうそかめ谷あかおか村浜五郎兵衛」宛に、「急度申入候、仍其元在所中百姓等、若山中へ立退候共早々可有還住候、当国置目等之儀、如前々聊相違有間敷候」との通達を出した(蠧簡集)。五郎兵衛は阿波国日和佐ひわさ(現徳島県海部郡日和佐町)の豪族で、長宗我部氏を頼って来国、刀禰一人で手薄であった村方の支配に協力したのであろう。


赤岡村
あこうかむら

[現在地名]下郷町合川あいかわ

寺山てらやま村の南西、阿賀川支流観音かんのん川両岸の河岸段丘上に立地。小松川こまつかわ村へ通じる道がある。北東の丘陵たて山上に赤岡館跡がある。天正一九年(一五九一)赤岡館の館主雅楽が検地に反対、同調した周辺の農民らと検地役人とが衝突する松川騒動(赤岡騒動)が発生。役人一六人が死傷、農民三五人が即死、九人が負傷した。その後農民一四〇人が捕らえられ、六〇人が打首となった(「会津旧事雑考」ほか)。南山御蔵入領松川組に属する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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