与次兵衛ヶ瀬(読み)よじべえがせ

日本歴史地名大系 「与次兵衛ヶ瀬」の解説

与次兵衛ヶ瀬
よじべえがせ

関門かんもん海峡大瀬戸おおせとにあった暗礁。満潮時には隠れ、干潮時には現れる死の瀬といわれた。

文禄元年(一五九二)七月、豊臣秀吉は生母大政所が重病のため名護屋なごや(現佐賀県)から帰京することになり、毛利秀元らと海路小倉こくら(現福岡県)を出発して東上の途次、赤間関大迫戸あかまがせきおおせと(大瀬戸)で船が座礁した。秀元は端舟を出して秀吉の難を救うが、その御座船の船頭が明石与次兵衛であった。古河古松軒の「西遊雑記」は「既にくつがへらんとして甚だあやふかりしかば、船頭明石与次兵衛といへる者おちどとなりて、内裡浜に於て首を刎らる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

苦肉の策

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android