日本歴史地名大系 「与那城町」の解説 与那城町よなしろちよう 沖縄県:沖縄島中部与那城町面積:一八・九五平方キロ沖縄島中部の東海岸、太平洋に突き出た勝連(かつれん)半島を勝連(かつれん)町と二分し、ほぼ半島北側を占める本島部分と、与勝(よかつ)諸島に属する藪地(やぶち)・平安座(へんざ)・宮城(みやぎ)・伊計(いけい)の四つの島からなる。本島部は東西五・五キロ、南北一キロと細長く、中央部を石灰岩や島尻層群(ジャーガル)の丘陵地が東西に走り、北側に向かって緩く傾斜し、沖積低地や海岸線に至る。東は太平洋、北西は具志川(ぐしかわ)市、南は勝連町、北は金武(きん)湾に面している。先史時代の遺跡としては藪地島に貝塚時代早期・後期のヤブチ洞穴遺跡、伊計島に貝塚時代中期の標式土器仲原式土器の出土した仲原(なかばる)遺跡、上原(うえはら)に貝塚時代中期の集落跡シヌグ堂(どう)遺跡がある。古琉球期には平安座島ほぼ中央部に平安座西(へんざいり)グスク、伊計島南西のかつては独立島であったとみられる半島上に伊計(いけい)グスクが築かれ、宮城島にも泊(とまり)グスクが築かれた。「おもろさうし」巻一六には「よなくすく」(与那城)、「いけくすく」(伊計グスク)、「いけはなれ」、「てるまはま」、「ひやむさ」(平安座)、「みやくすく」(宮城)、「やけな」(屋慶名)などの地名が散見される。町域は近世初めには勝連(かつちん)間切に属していたが、康熙一五年(一六七六)に西原(にしはら)間切として分離・独立、その後平田(ひらた)間切、さらに与那城(ゆなぐしく)間切と改称、同間切として近代に至った。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by