日本歴史地名大系 「与那城村」の解説 与那城村ゆなぐしくむら 沖縄県:沖縄島中部与那城町与那城村[現在地名]与那城町与那城(よなしろ)西原(にしはら)村の東にあり、北は金武(きん)湾に面する。南は勝連(かつちん)間切平安名(へんな)村(現勝連町)。当初は勝連間切、康熙一五年(一六七六)に西原(にしはら)間切、同年平田(ひらた)間切、同二六年からは与那城(ゆなぐしく)間切に属した。いわゆる間切同村で惣地頭の村である。ただし間切番所は置かれていない。絵図郷村帳に与那城村とみえる。琉球国高究帳によれば高頭一〇二石余、うち田高二八石余・畠七三石余。 与那城村ゆなぐしくむら 沖縄県:沖縄島中部西原町与那城村[現在地名]西原町与那城(よなぐすく)小波津(くふわち)村の南にあり、東方に耕地が広がる。絵図郷村帳に与那城村とみえる。琉球国高究帳では我謝(がーじや)村と一括されて高頭三八九石余、うち田二九二石余(うち永代荒地一五七石余)・畠九七石余。「琉球国由来記」には与那城火神の拝所、祭祀場として謝名越(じやなんくい)之殿が記載され、我謝ノロが祭祀を管轄した。隣接の我謝村に所在する謝名越(じやなんくい)ノ嶽が当村の御嶽と推察される。乾隆五五年(一七九〇)津花波(ちふあぬふあ)村の掛福親雲上の善行を褒賞する功績の一として、疲弊した当村を立直すため住民と協議して住居をやせた土地に移し、沃土の宅地を畑に開発したことがあった(「球陽」尚穆王三九年三月一一日条)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by