中川堰
なかがわぜき
江戸時代、赤川右岸の下馬渡村(現羽黒町)で取水し、北上して櫛引町・羽黒町・藤島町・三川町・余目町および酒田市の赤川と京田川に画された区域を灌漑した庄内有数の灌漑用水路。羽黒街道以南は赤川の旧河道を利用し、慶長年間(一五九六―一六一五)の赤川大改修完了後に開削されたものとみられる。明治二〇年(一八八七)の取入口改修紀念碑に「元和の初、最上氏赤川より分ち引く」とあり、これを開削年代とするのが妥当であろう。なお寛正二年(一四六一)の年紀をもつ牧善兵衛文書(中川史)に開削について記されるが、同文書は検討を要する。寛永三年(一六二六)の大改修で水路はさらに北へ延長され、新田開発が進み、押切新田村(現三川町)など多くの村が成立した。正徳五年(一七一五)には三万六千八〇〇人を動員して土手築立工事が行われた(取入口改修紀念碑)。当用水沿いの地形は中流付近が小高くなっており、難工事であったことがうかがわれる(中川史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報