馬渡村(読み)まわたりむら

日本歴史地名大系 「馬渡村」の解説

馬渡村
まわたりむら

[現在地名]櫛引町馬渡、羽黒はぐろ馬渡まわたり内下うちしも

田代たしろ村の西、あか川右岸にあり、同川が庄内平野へ出る咽喉部にあたる。村の中央を因幡いなば堰および当村で赤川から取水する中川なかがわ堰がそれぞれ北流する。西は赤川を隔てて勝福寺しようふくじ(現鶴岡市)、北は石野新田いしのしんでん村・松尾まつお村・後田うしろだ(現羽黒町)、集落は中世の六十里越街道と伝える藤島ふじしま(現藤島町)松根まつねとを結ぶ街道に沿い、江戸時代の因幡堰俯瞰略図(因幡堰史)ではかみなかしもの三集落に分れているが、明治五年(一八七二)の大洪水ののち、上馬渡と下馬渡(現羽黒町)に大別される現在の姿となったといい、上馬渡には対岸我老林がろうばやし(現鶴岡市)とを結ぶ赤川の渡船場があった。地名はこの渡しを馬を乗せられるほどの大船が行き来して便利だったこと、あるいは赤川を渡るのに最も浅瀬の地で、荷をつけたまま馬が渡れたことに由来すると伝えるが(「黒川村史」など)、元和二年(一六一六)の堰川絵図(勝福寺区有)には「馬わり村」とみえ、これからの転訛とも考えられる。

馬渡村
まわたしむら

[現在地名]佐倉市馬渡

鹿島かしま川左岸、大篠塚おおしのづか村・小篠塚こしのづか村の南に位置。佐倉しん町から登戸のぶと(現千葉市中央区)方面へ至る千葉佐倉道などが通る交通の要地。元禄郷帳ではマワタリと訓じ、道標などでも同様である。「源平闘諍録」によると、治承四年(一一八〇)源頼朝に属した千葉氏を討つため平家方の千田判官代藤原親政が千葉館を攻めている。その際、匝瑳北条内山そうさほうじよううちやま(現八日市場市)を出発した親政軍千余騎は武射むしやの横路を経て「白井ノ馬渡ノ橋」を渡り、千葉へ向かっている。当地は北総地方と千葉を結ぶ街道が鹿島川を渡る地点として中世から交通の要衝であった。現神崎こうざき神宮じんぐう寺が所蔵する大般若経巻四五一の貞治二年(一三六三)七月一二日付の奥書に馬渡明仙とある。

馬渡村
まわたりむら

[現在地名]勝田市馬渡

本郷ほんごう川が村の中央よりやや西を南流し、北は長砂ながすな村。嘉元大田文に、吉田郡内の一郷として「馬渡六丁六段六十歩」とみえ、伊勢大神宮の「役夫工米」を賦課された。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)には「まわたり」とあり、佐竹氏の一族東義久の知行地であった。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「馬渡村」とみえ、石高三八三・九五八石、ほかに新田分一三五・一八六石とある。大正四年(一九一五)の酒列神社縁起(小池国基氏蔵)によると「寛永の末に至り馬渡郷を本郷と改め、青塚村二亦村を合し一村とし馬渡村と改称」したという。字西向野にしむかいのにあった館跡は大山館跡といわれ、「前渡郷土誌」は寛治(一〇八七―九四)の頃源義家が奥州に赴くとき宿泊したとの伝説を記すが史料的裏付はない。

馬渡村
まわたりむら

[現在地名]珠洲市宝立町馬渡ほうりゆうまちまわたり

大町泥木おおまちどろのき村の南、舟橋ふなばし川の狭長な谷間などに立地する。垣内は泥木に近い二艘舟にそうぶね、その南の長谷ながたに、舟橋川の最上流に久亀くき、それより下流に向かって是久これひさ山田やまだ二口ふたくち乗木のりきがある。近世史料上は山田・二口を下馬渡、是久を中馬渡、久亀を上馬渡などと表記する例がある。平是久が馬で渡ってきて開いた村であるという。元和七年(一六二一)の山卸し帳(新谷文書)に村名がみえ、「四斗ハ 酒ヤ村はしもと 越中屋」などと請人・地所・請山料が記される。寛永一〇年(一六三三)の百姓取立詮議願(角谷文書)などによれば、山田という有力百姓が元和六年の検地の頃に収奪に堪えきれなかったのか越後に逃亡、その後を甥の与三が継いだものの、肝煎の是久の扱いが好ましくなく、山田の子が寛永八年に帰村した。

馬渡村
まわたりむら

[現在地名]田主丸町以真恵いまえ

江口えぐち村の西に位置し、屋敷地は日田街道に沿う(上三郡絵図)。弘治三年(一五五七)八月二三日の大友義鎮知行預ケ状写(薦野家譜/大分先哲叢書「大友宗麟」二)に記されている「筑後国之内(間)渡六町分」は当地に比定されており、薦野鎮房に預け置かれている。打渡しを命じた同年一二月三日の大友氏加判衆連署奉書写(同家譜)には竹野たかの郡本庄のうち「馬渡六町」とある。なお正平一三年(一三五八)六月、安楽寺(太宰府天満宮)楽得らくとく別符において神用米を未進し、寺家から征西府に訴えられた馬渡助房は(同月二九日「征西将軍宮令旨」太宰府天満宮文書/南北朝遺文(九州編)四)、当地を名字の地とする在地領主であろう。

馬渡村
もうたりむら

[現在地名]湖北町馬渡

小倉おぐら村の南東、高時たかとき川右岸に位置。対岸は小今こいま村。集落の東を川に沿って北国街道が通る。古くは大観音寺村と称したが、足利尊氏が北国へ行く途次、村人が馬の渡河を助けたので、馬渡村と名付けられたといい、八日市ようかいち村・高田たかた村・当村地先の高時川は馬渡川(川幅九〇間、常水一五間余)と称されたという(輿地志略)。文明二年(一四七〇)一〇月一六日、多賀清直が「為寺家詫事」として竹生ちくぶ(現びわ町)年行事に以前と同様「馬渡」を知行することを許している(竹生島文書)

馬渡村
まわたしむら

[現在地名]松尾町高富たかとみ

小借毛こがしけ村の南西、木戸きど川の東岸に位置する。元禄郷帳に小借毛村枝郷として村名がみえ、高八七石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高九七石余、家数七、三卿の清水領と旗本中根領。享和三年(一八〇三)の武射郡高石地頭所姓名帳(伊藤家文書)では中根領と幕府領。以後幕末まで同領(旧高旧領取調帳)。嘉永二年(一八四九)には鹿狩人足四人を出している(「鹿狩御用添触」伊藤家文書)

馬渡村
まわたしむら

[現在地名]八束町馬渡

亀尻かめしり村の東に位置し、北と東は中海に面する。大根だいこん島七ヵ村の一つで、後分に属する。寛永八年(一六三一)の大根島御検地帳に村名がみえ、亀尻村と一括して記載される。元禄一三年(一七〇〇)の大根島検地帳(八束町役場蔵)では当村の反別は畑九町一反余で田はない。名請人二二。宝暦一三年(一七六三)の大根島万指出帳(同役場蔵)では家数三四・人数一六四、船数八。同年に実施された島義田では飯石いいし吉田よしだ(現吉田村)の田辺長右衛門は大根島で高一〇〇石を与えられ、その島義田証文・義田証文添目録覚(島根県史)によると当村は二二石余の負担が課されている。

馬渡村
まわたりむら

[現在地名]伊勢原市岡崎おかざき

北は大竹おおだけ村、東は城所きどころ(現平塚市)、南は大句おおく村に接する。大山道が通る。西海地さいかち村・上入山瀬かみいりやませ村・下入山瀬村(現平塚市)、大句村などに飛地一二ヵ所がある。正保国絵図に「馬渡」とみえる。寛永一〇年(一六三三)旗本須田領。平塚宿大助郷を勤め、享保三年(一七一八)の助郷高一五九石(「平塚宿助郷帳」県史九)

馬渡村
まわたりむら

[現在地名]門前町馬渡

渡瀬わたぜ村の南東、仁岸にぎし川上流、やや谷の開けた傾斜地と山地に立地。正保郷帳では高二八九石余、田方一三町九反・畑方五町四反余。承応三年(一六五四)の村御印の高三〇〇石余、免五ツ一歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三一五石、免五ツ三歩、小物成は山役一九〇匁・苦竹役三匁、鳥役二匁(出来)、漆役一匁(三箇国高物成帳)

馬渡村
うまわたりむら

[現在地名]茨城町馬渡

涸沼前ひぬままえ川の右岸に位置し、川を隔てて西北は常井とこい村。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に馬渡り村八六・八九石とある。江戸時代は旗本領で元禄郷帳に「馬渡村」とみえる。幕末は松平蔵之介知行地(各村旧高簿)

馬渡村
まわたりむら

[現在地名]荻町政所まどころ

馬渡川の北岸に位置する。正保・元禄・天保の各郷帳に村名がみえない。貞享二年(一六八五)には葎原組に属し、村位は下、高一〇八石(農民一揆)。弘化物成帳では葎原組のうち、村位は下、免三ツ八分、田一三石余(一町五反余)・畑九三石余(一九町三反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はなく、開畑八斗余(一町七反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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