日本大百科全書(ニッポニカ) 「中平善之丞」の意味・わかりやすい解説
中平善之丞
なかひらぜんのじょう
(1709―1757)
江戸中期の土佐(高知県)の百姓一揆(いっき)の指導者。善之進(ぜんのしん)ともいい、名は隠敦(かげあつ)。高岡郡津野山(つのやま)郷(津野町)の出身で、父は上岡吉右衛門(かみおかきちえもん)。中平家を継ぎ、同郡檮原(ゆすはら)村の庄屋(しょうや)となる。1752年(宝暦2)土佐藩は専売制を強め、国産問屋を指定して農民から各種の生産物を不法の安値で強制的に買い上げたため、農民は激高し、善之丞のもとに結集して1755年津野山一揆を起こす。善之丞ら22人は逮捕され8人は投獄される。翌1756年善之丞は問屋の蔵屋(くらや)利左衛門と対決し、不正を追及したが、2人は死罪となった。しかしこれ以後国産問屋への非難が高まり、藩は小祠(しょうし)を設けて善之丞を祀(まつ)り、1763年問屋制廃止を宣言した。
[山本 大]