徒党を組んで強引に訴願をなすこと。嗷訴とも書く。古くは平安中期から室町末期に至る間に、寺社の衆徒(しゅと)・神人(じにん)らが武器をとり、集団行動によって、朝廷または要路に自己の要求を突きつけ、その裁許を強要する行動をいう。このうち春日(かすが)神木を捧持(ほうじ)する奈良興福寺(こうふくじ)の衆徒と日吉神輿(ひえしんよ)を担ぐ比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の大衆の活動がもっとも顕著である。僧侶(そうりょ)は本来、所司の順序を経ずに直接要路へ訴訟することは養老令(ようろうりょう)以来禁ぜられていたが、律令国家の諸紀綱の乱れが社会全般に波及してくるころになると、僧侶らが群集して京都に乱入し、朝廷へ愁訴(しゅうそ)することがたびたび起こった。この行動は949年(天暦3)に東大寺の法師団が別当の非違を訴えて入京したことに始まり、981年(天元4)には京都法性寺(ほっしょうじ)座主(ざす)に関して、180余人の僧侶が訴訟し、1006年(寛弘3)には大和(やまと)国司源頼親(よりちか)の罷免を乞(こ)うて興福寺大衆2000余人が行動しているが、これらは当時一般の百姓が秕政(ひせい)を鳴らして愁訴した場合と同様に、朝廷の手兵によって追い返されている。しかし一方、伊勢(いせ)神宮や宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)からの入洛(にゅうらく)訴訟については、彼らがそれぞれの神威を背景とし、神霊の拠物を捧持して交渉したため、祟(たた)りの思想の強い公家(くげ)社会では、これを恐れるのあまり、彼らの申請のままに処断する例が多くなった。やがて寺院側もその方式に倣い、平安後期に朝廷の寺院に対する統制力の弛緩(しかん)に乗じて寺院大衆の自治権が著しく伸張したことや、神仏混淆(こんこう)思想の横溢(おういつ)した背景などから、関係ある神社の神木や神輿を捧持し、大衆の集会(しゅうえ)決議によって、要路に向かって直接、かつたびたび威圧を加えることとなった。朝廷でも当初はこれを厳禁してきたが、公家の迷信がますます厚さを加えるなかにあっては、まったくその対策を失い、寺院側では裁許を促すために、さらに僧侶の全員離山をもって脅迫したので、「仏法衰うれば王法亡(ほろ)ぶ」との当時の思想から、しだいにその要求を拒絶できなくなった。かの強直な白河(しらかわ)法皇さえも「朕(ちん)の意にかなわぬ者は、賀茂(かも)川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師」と嘆いたのは著名な話であり、また理不尽な要求を押し通すことを「山階(やましな)道理」(山階寺は興福寺の古名)と称することともなった。このようにして寺院は強大な武力と広大な寺領を背景とする権力によって、国家法権、警察権の外にたつようになった。鎌倉初期に至り源頼朝(よりとも)は政権を掌握した際、一時これを弾圧しようとしたが、公家側の信仰思想の存在から成功しなかった。この強訴は公家勢力の残存した室町時代まで続いたが、入洛は南北朝期にほぼ終わっている。中世末期の動乱時代に入ると、大寺院はますます多数の僧兵を養って、自己勢力の増大を図り、ために時の中央政権、地方政権、さらに寺院相互間の軋轢(あつれき)抗争にも活動したが、より強大な織豊(しょくほう)政権の出現によってようやく終焉(しゅうえん)したものである。
江戸時代、幕府では百姓一揆(いっき)のことを強訴と称した。1770年(明和7)4月の「徒党強訴逃散(ちょうさん)訴人儀高札」によれば、「何事によらずよろしからざる事に百姓大勢申合候を徒党ととなへ、徒党してねがい事企つるを強訴といひ……」と定義している。
[平井良朋]
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惣百姓による集団的な直訴行動。江戸時代の百姓一揆の中心的な闘争形態。江戸時代初頭には武力による反抗も起こったが,島原の乱以降は百姓訴訟法と村落支配制度が整備され,順を踏んだ訴願がふえた。しかし小百姓が成長し,訴訟の体験を重ねることを通じて,やがて苛政に対して順を踏まない違法な直訴の方法で農民の要求を実現しようとする闘争が生まれてきた。17世紀中・後期には,惣百姓の意向を体して村役人が単独もしくは少数で直訴する村役人代表越訴(おつそ)が多かったが,そのなかから,惣百姓が徒党して直接に直訴する惣百姓強訴の闘争が発展してきた。早いものは延宝年間(1673-81)に現れ,1686年(貞享3)の加助騒動は代表越訴と強訴の両方がみられる一揆である。18世紀に入ると強訴がふえるが,小百姓の多数参加によって,領主に対する直訴だけでなく,特権をもつ一部の百姓・町人や一揆に協力しない村役人の家宅を,制裁として打ちこわすことも起こりはじめた。加助騒動のなかでもすでに打毀(うちこわし)の端緒がみられるが,1712年(正徳2)の加賀大聖寺藩一揆は,激しい打毀をともなう全藩的な規模の強訴の画期となった。強訴の増加は一揆禁令にも反映し,幕府は41年(寛保1),〈地頭え対し強訴,其上致徒党逃散(ちようさん)之百姓〉に対する刑罰を決めた。順法的な訴訟もふえ,代表越訴も少なくならなかったが,18世紀後半以降は激しい全藩的強訴が農民闘争の中心となり,諸藩の政策の変更を迫った。幕府は70年(明和7)4月,全国に高札を立てさせ,そのなかで〈よろしからざる事に百姓大勢申合〉せることを徒党,〈徒党して強いて願い事企〉てることを強訴と規定し,褒賞を約して訴人をすすめた。多数者の行動である強訴では頭取と呼ばれる指導者が活躍し,刑死するとひそかにまつられ,義民となった。大規模な強訴からは,多くの記録や一揆物語が作られた。
執筆者:深谷 克己
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1嗷訴とも。僧徒・神人(じにん)が集団で武器をもち,鎮守神を押し立てて朝廷や幕府に訴え要求をすること。平安中期に始まり院政期に活発化した。春日社の神木をかざした興福寺の強訴と,日吉社の神輿をかついで行った延暦寺の強訴が有名。また荘園制下の百姓も一揆を結び,領主のもとに全員で押しかけ,年貢の減免などを訴える列参強訴(れっさんごうそ)を行った。
2江戸時代の百姓一揆の闘争形態の一つ。管轄役所で定められた手続きをふまないでなされた訴えの一種。「公事方御定書」は,大勢徒党を組んで代官陣屋へ押し込み,あるいは私領城下へ詰めて要求を訴える行為と規定し,頭取は死罪とした。17世紀末に出現し,18世紀以降頻発し,百姓一揆の典型的な形態となった。強訴中に激しい打ちこわしをともなう場合もある。
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…33年(寛永10)に幕府は訴訟手続を制度化したが,反面で直訴は全面的に禁止した。しかし,村役人が村の利益を代表して越訴することは17世紀の百姓一揆の特徴となり,18世紀にはいると惣百姓が直接に集団で越訴する強訴(ごうそ)が増加する。幕府は,1711年(正徳1)に巡見使への出訴,21年(享保6)に目安箱への箱訴を認めて越訴の特例をつくるとともに,徒党強訴をはじめ駕籠訴(かごそ),駈込訴(かけこみそ),捨訴(すてそ),張訴(はりそ)などの順を踏まない直訴行為を厳禁した。…
…閏12月16日,武蔵国児玉郡の十条河原に集結して増助郷中止の要求を決め,翌17日本庄宿の市をつぶし騒動のさきがけとした。21日に十条河原に集結した農民は要求貫徹のため江戸強訴(ごうそ)を決し,22日強訴の効果を上げるための示威手段として本庄宿を,ついで27日熊谷宿を打ちこわした。この蜂起は上野国の村々をまきこみ,さらに信濃,下野の増助郷村々の動揺を誘発させた。…
…中世後期に陸上運輸業者の馬借が集団で蜂起した事件。土一揆(つちいつき)の先頭を切った行動として注目されているが,元来山門の強(嗷)訴(ごうそ)の一環として登場した事件である。1379年(天授5∥康暦1)6月,近江坂本の馬借1000余人が京の祇園社に討ち入ったというのが初見で(八坂神社〈社家記録〉),山徒(山門の下級僧侶)の一員でありながら幕府と結託して権勢を振るった円明坊と,関のことで争ったことが原因であった。…
…1637(寛永14),38年の島原・天草一揆(島原の乱)は,武力一揆と逃散の二つに分離していた農民闘争が次の本来的な一揆的結集へ転換していく分水嶺の位置にある。
[惣百姓強訴]
居村内でのねばりづよい小農自立闘争と領主の小農維持政策によって近世農村が成立してくると,小農民が惣百姓として村役人を通じて領主と向かいあうことになった。兵農分離はいっそう貫徹し,武器は百姓の手から奪われて武力一揆は終わった。…
※「強訴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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