朝日日本歴史人物事典 「中臣勝海」の解説
中臣勝海
生年:生年不詳
6世紀後半,敏達・用明両朝の大夫。『中臣氏延喜本系帳』や『尊卑分脈』には見えず,のちの鎌足らとは別系統とする説もある。敏達14(585)年疫病が流行すると,その原因は蘇我馬子が仏教を崇拝していることにあると物部守屋と共に奏上し,馬子の有する仏像や仏殿,塔などを破却,善信尼らを捕らえて鞭打った。また用明2(587)年にも,病篤く仏法に帰依せんことを群臣に諮った用明天皇に対して,どうして国神に背いて他神を敬うことができようかと反対した。馬子と守屋の対立が決定的になると,守屋を支援するため自宅に兵を集めるが,事の不利を悟って水派宮(奈良県河合町,あるいは広陵町か)の敏達天皇の皇子彦人皇子(押坂彦人大兄皇子)のもとに帰順する途中,彦人の舎人迹見赤檮によって斬殺された。
(佐藤長門)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報