崇峻天皇(読み)スシュンテンノウ

デジタル大辞泉 「崇峻天皇」の意味・読み・例文・類語

すしゅん‐てんのう〔‐テンワウ〕【崇峻天皇】

[?~592]第32代の天皇欽明天皇の皇子。名は泊瀬部はつせべ蘇我馬子そがのうまこに擁立されたが、のち対立して暗殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「崇峻天皇」の意味・読み・例文・類語

すしゅん‐てんのう‥テンワウ【崇峻天皇】

  1. 第三二代の天皇。欽明(きんめい)天皇の皇子。泊瀬部(はつせべ)天皇・長谷部若雀(はつせべのわかささぎ)天皇・倉橋天皇とも。母は蘇我稲目の娘、小姉君(こあねのきみ)。蘇我・物部両氏争乱のあと蘇我馬子に擁立されて即位。在位五年で馬子のために暗殺された。崇峻五年(五九二)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「崇峻天皇」の意味・わかりやすい解説

崇峻天皇 (すしゅんてんのう)
生没年:?-592

第32代に数えられる6世紀末の天皇。在位587-592年。《日本書紀》によれば,欽明天皇の皇子で母は大臣(おおおみ)蘇我稲目の女の小姉君(おあねのきみ),幼名を泊瀬部(はつせべ)皇子といった。587年用明天皇の死後,大臣蘇我馬子は大連(おおむらじ)物部守屋を攻め滅ぼして,その権力を確立すると,敏達皇后の豊御食炊屋姫尊(とよみけかしぎひめのみこと)(推古天皇)らとともに,泊瀬部皇子を推して即位させた。天皇は倉梯(くらはし)(奈良県桜井市倉橋)の地に宮を造らせ,また大伴糠手(ぬかて)の女の小手子(こてこ)を妃として蜂子(はちのこ)皇子と錦代(にしきて)皇女をもうけていたが,やがて馬子と疎隔したらしく,592年11月馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に天皇を暗殺させ,その日のうちに倉梯岡陵に葬った。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「崇峻天皇」の意味・わかりやすい解説

崇峻天皇
すしゅんてんのう
(?―592)

記紀の皇室系譜では第32代の天皇。欽明(きんめい)天皇の皇子で、母は小姉君(こあねのきみ)(蘇我稲目(そがのいなめ)の娘)。泊瀬部(はつせべ)天皇(『日本書紀』)、長谷部若雀(はつせべわかさざき)天皇(『古事記』)、倉橋(くらはし)天皇(『法王帝説』)ともよぶ。倉梯(くらはし)(奈良県桜井市倉橋)に宮居したと伝え、この天皇の代に百済(くだら)から僧恵総(えそう)らが渡来し、また寺工、鑪盤博士(ろばんはかせ)、瓦(かわら)博士、画工らが来朝した。また蘇我氏は法興寺を588年(崇峻天皇1)に造営し始めたという。591年、朝鮮半島の情勢変化に対応しようとして北九州に大軍を集結させたが、592年11月、蘇我馬子(うまこ)は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて天皇を暗殺させた。陵墓は倉梯岡上(くらはしのおかのうえ)陵(桜井市倉橋)とする。

上田正昭

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「崇峻天皇」の意味・わかりやすい解説

崇峻天皇
すしゅんてんのう

[生]? 大和
[没]崇峻5(592).11.3. 大和
第 32代の天皇 (在位 587~592) 。名は泊瀬部 (はつせべ) 。欽明天皇の第 12皇子,母は蘇我稲目の娘,蘇我小姉君。用明天皇の崩御後,蘇我,物部の対立が激化蘇我馬子は用明2 (587) 年,物部氏が立てようとしていた穴穂部皇子を殺し,豊御食炊屋姫尊 (推古天皇 ) や群臣とともに泊瀬部皇子を即位させた。この月に大和倉梯 (くらはし) 柴垣宮に都した。馬子が大臣となり国政を左右したので,天皇は馬子を除こうとしたが,東漢直駒 (やまとのあやのあたいこま) に暗殺された。陵墓は奈良県桜井市大字倉橋字金福寺跡の倉梯岡上陵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「崇峻天皇」の解説

崇峻天皇 すしゅんてんのう

?-592 記・紀系譜による第32代天皇。在位587-592。
欽明(きんめい)天皇の第12皇子。母は蘇我小姉君(そがの-おあねのきみ)。政治権力をにぎった大臣蘇我馬子(そがの-うまこ)と対立。崇峻天皇5年11月3日東漢直駒(やまとのあやのあたい-こま)をつかった馬子に暗殺された。墓所は倉梯岡上陵(くらはしのおかのえのみささぎ)(奈良県桜井市)。別名は泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)。
【格言など】何(いずれ)の時にか此の猪(しし)の頸(くび)を断(き)るが如(ごと)く,朕(わ)が嫌(ねた)しとおもふ所の人を断らむ(「日本書紀」)

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朝日日本歴史人物事典 「崇峻天皇」の解説

崇峻天皇

没年:崇峻5(592)
生年:生年不詳
6世紀後半の天皇。欽明天皇と蘇我稲目の娘小姉君の第5子で,欽明天皇諸子中では12番目。泊瀬部天皇,長谷部若雀命と記される。用明天皇死後,大連である物部守屋が崇峻と同母兄の穴穂部皇子を即位させようとしていることを知った蘇我馬子は穴穂部を殺させ,守屋討滅に向かった。崇峻もその一員に加わり,守屋討滅後,炊屋姫(のちの推古天皇)に推されて,587年即位した。馬子の支援が推察されるが,馬子排除を匂わせる言葉を発し,これを知った馬子は「東国の調」にことよせ,東漢直駒を送って殺害した。任那復興に意欲をみせ,筑紫に兵2万人を送った。

(大平聡)

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百科事典マイペディア 「崇峻天皇」の意味・わかりやすい解説

崇峻天皇【すしゅんてんのう】

欽明(きんめい)天皇皇子。587年兄用明(ようめい)天皇の死後,炊屋(かしきや)姫(推古天皇)や蘇我馬子らに擁立されて即位。宮居は大和の倉梯(くらはし)宮。馬子との確執があり,592年馬子の手先により暗殺。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「崇峻天皇」の解説

崇峻天皇
すしゅんてんのう

記紀系譜上の第32代天皇。6世紀後半に在位という。泊瀬部(はつせべ)天皇と称する。欽明天皇の皇子。母は蘇我稲目(いなめ)の女小姉君(おあねぎみ)。異母兄の用明天皇の死後,同母兄の穴穂部(あなほべ)皇子を天皇に推す物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(うまこ)が対立,皇子は馬子側についた。穴穂部皇子と守屋が殺された後,用明2年即位し,倉梯(くらはし)宮(現,奈良県桜井市倉橋)を営んだ。しかしのち馬子と対立し,崇峻5年馬子の送った刺客の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺され,即日埋葬された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「崇峻天皇」の解説

崇峻天皇
すしゅんてんのう

?〜592
6世紀末の天皇(在位587〜592)
欽明天皇の皇子。母は蘇我稲目の娘小姉君。用明天皇の死後,物部 (もののべ) 守屋を滅ぼした蘇我馬子に擁立されて即位。のち馬子と反目し,その配下の東漢直駒 (やまとのあやのあたいこま) に暗殺された。

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