第32代に数えられる6世紀末の天皇。在位587-592年。《日本書紀》によれば,欽明天皇の皇子で母は大臣(おおおみ)蘇我稲目の女の小姉君(おあねのきみ),幼名を泊瀬部(はつせべ)皇子といった。587年用明天皇の死後,大臣蘇我馬子は大連(おおむらじ)物部守屋を攻め滅ぼして,その権力を確立すると,敏達皇后の豊御食炊屋姫尊(とよみけかしぎやひめのみこと)(推古天皇)らとともに,泊瀬部皇子を推して即位させた。天皇は倉梯(くらはし)(奈良県桜井市倉橋)の地に宮を造らせ,また大伴糠手(ぬかて)の女の小手子(こてこ)を妃として蜂子(はちのこ)皇子と錦代(にしきて)皇女をもうけていたが,やがて馬子と疎隔したらしく,592年11月馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に天皇を暗殺させ,その日のうちに倉梯岡陵に葬った。
執筆者:関 晃
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記紀の皇室系譜では第32代の天皇。欽明(きんめい)天皇の皇子で、母は小姉君(こあねのきみ)(蘇我稲目(そがのいなめ)の娘)。泊瀬部(はつせべ)天皇(『日本書紀』)、長谷部若雀(はつせべわかさざき)天皇(『古事記』)、倉橋(くらはし)天皇(『法王帝説』)ともよぶ。倉梯(くらはし)(奈良県桜井市倉橋)に宮居したと伝え、この天皇の代に百済(くだら)から僧恵総(えそう)らが渡来し、また寺工、鑪盤博士(ろばんはかせ)、瓦(かわら)博士、画工らが来朝した。また蘇我氏は法興寺を588年(崇峻天皇1)に造営し始めたという。591年、朝鮮半島の情勢変化に対応しようとして北九州に大軍を集結させたが、592年11月、蘇我馬子(うまこ)は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて天皇を暗殺させた。陵墓は倉梯岡上(くらはしのおかのうえ)陵(桜井市倉橋)とする。
[上田正昭]
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(大平聡)
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記紀系譜上の第32代天皇。6世紀後半に在位という。泊瀬部(はつせべ)天皇と称する。欽明天皇の皇子。母は蘇我稲目(いなめ)の女小姉君(おあねぎみ)。異母兄の用明天皇の死後,同母兄の穴穂部(あなほべ)皇子を天皇に推す物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(うまこ)が対立,皇子は馬子側についた。穴穂部皇子と守屋が殺された後,用明2年即位し,倉梯(くらはし)宮(現,奈良県桜井市倉橋)を営んだ。しかしのち馬子と対立し,崇峻5年馬子の送った刺客の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺され,即日埋葬された。
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