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蘇我氏 そがうじ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蘇我氏
そがうじ

大和朝廷の一豪族孝元天皇の曾孫,武内宿禰の子孫とされるが明らかではない。『日本書紀』推古32(624)年の条には,大和葛城地方を本拠としたと蘇我馬子によって語られたとある。『古語拾遺』によれば,雄略天皇の頃から大和朝廷の財政を掌握し,渡来人系技術者を手中に収め,大連物部氏とともに政治の中心に立った。早くから海外情勢に敏感に反応し,6世紀の仏教伝来に際しては終始,崇仏派としての立場をとった(→日本仏教)。やがて物部氏と崇仏の可否をめぐって争い,物部氏を滅ぼした。馬子は,崇峻天皇を殺し,推古天皇を立てて聖徳太子とともに政治をとり,仏教興隆などの面で大きな功績を残した。太子が没すると,馬子は皇室の直轄領である葛城県を要求するなど朝権を侵す行為が多かった。馬子の死後,蘇我蝦夷大臣となったが,実権はむしろ子の蘇我入鹿にあったものと考えられる。入鹿は,皇極2(643)年親縁関係にある古人大兄皇子の即位を実現させるため,聖徳太子の子山背大兄王の一族を殺した。この間に,中大兄皇子(天智天皇),中臣鎌足(藤原鎌足)らの政治改革の計画が進められ,同 4年入鹿は宮中で殺され,蝦夷も自殺して蘇我氏の宗家は滅び,蘇我倉山田石川麻呂らの傍系のものが改新政府の要職についた(→大化改新)。

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百科事典マイペディアの解説

蘇我氏【そがうじ】

古代の有力豪族。武内宿禰(たけうちのすくね)の子石川宿禰の子孫と称し,大和国高市(たけち)郡の蘇我を本拠としたという。大和朝廷の財政・外交を掌握,仏教など大陸文化の移入に努めた。
→関連項目飛鳥時代乙巳の変冠位十二階磯長谷司馬達等上宮聖徳太子伝補闕記舒明天皇推古天皇

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世界大百科事典 第2版の解説

そがうじ【蘇我氏】

古代の有力氏族。姓(かばね)は臣(おみ)。後世の系図では,孝元天皇の孫(あるいは曾孫)武内宿禰(たけうちのすくね)を波多(はた),巨勢(こせ),平群(へぐり),紀,葛城(かつらぎ)氏とともに祖先とし,武内宿禰の子の石川宿禰に始まるとする。しかし,その起源には諸説があり,奈良県橿原市曾我または大阪府南河内郡石川の土着豪族とされてきたが,百済の高級官人木満致(もくまち)が5世紀末に渡来して大和の曾我に定着したのに発するともされる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蘇我氏
そがうじ

大和国家(やまとこっか)から飛鳥(あすか)時代にわたる有力氏族。姓(かばね)は臣(おみ)。後世の系図では、孝元天皇(こうげんてんのう)の孫(または曽孫(そうそん))の武内宿禰(たけしうちのすくね)を、波多(はた)・巨勢(こせ)・平群(へぐり)・紀・葛城(かずらき)氏とともに祖先とし、武内宿禰の子の石川宿禰に始まるとする。その起源は、奈良県橿原(かしはら)市曽我(そが)または大阪府南河内(みなみかわち)郡の石川流域とする両説があったが、百済(くだら)の高級官人木満致(もくまち)が5世紀末に渡来し、大和の曽我に定着したのに発したとの説も有力である。氏名の蘇我は、曽我、宗賀、巷宜、巷哥などとも記される。
 5世紀末葉の雄略(ゆうりゃく)朝に、満智(まち)が朝廷の三蔵(みつくら)をつかさどって財政に関与した伝承が『古語拾遺(こごしゅうい)』にみえ、『日本書紀』には韓子(からこ)が対新羅(しらぎ)関係で活躍した記事がみえるが、6世紀中葉の稲目(いなめ)が大臣になったころから勢力を急速に伸ばした。この間に、その基盤を曽我川沿いに南にさかのぼって拡大し、ついで畝傍山麓(うねびさんろく)から東に向かい飛鳥にまで達し、7世紀には主要な諸家を交通の要点に配した。つまり、堅塩媛(きたしひめ)家を河内磯長(しなが)谷に、小姉君(おあねのきみ)家を三輪山南方に、境部臣(さかいべのおみ)家を飛鳥の西方に、倉山田石川臣家を山田道に、最後に竜田道(たつたみち)を抑える斑鳩(いかるが)に厩戸皇子(うまやどのおうじ)(聖徳太子)の上宮王家を配した。これら有力諸家の下に久米(くめ)・桜井・田中氏らの諸支族を配し、渡来系の東漢(やまとのあや)氏諸族に支えられる複合的な氏族構造を形成した。
 こうして7世紀初頭の馬子(うまこ)の時代には、完全に政界を主導し、統一的な古代国家の体制を推し進めた。しかし毛人(えみし)(蝦夷)、鞍作(くらつくり)(入鹿(いるか))の執政期になると、他氏の反発が強まり、一族の結束も乱れ、ついに本宗家は645年6月に滅んだ。一族からはその後も政界に3人の大臣(石川臣麻呂(まろ)、連子(むらじこ)、赤兄(あかえ))がたったが、壬申(じんしん)の乱(672)の戦後処理によって蘇我氏は滅んだ。以後、蘇我氏の後は連子の流れが石川氏として継承した。[門脇二]

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世界大百科事典内の蘇我氏の言及

【飛鳥時代】より

…この間,孝徳朝に難波宮,天智朝に近江大津宮へ短期間都が移った以外,推古朝の豊浦宮・小墾田宮(おはりだのみや),舒明朝の飛鳥岡本宮・田中宮,皇極朝の飛鳥板蓋(いたぶき)宮,斉明朝の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮,天武朝の飛鳥浄御原(きよみはら)宮と宮室は集中的に飛鳥の地に営まれ,つぎの持統・文武朝の藤原京も新益京(しんやくのみやこ)とよばれるように,飛鳥中心の倭京(わきよう)を拡張したものであった。
[時期区分]
 645年(大化1)の蘇我氏滅亡,大化改新までを前期,以後を後期とする。ただし後期を壬申の乱以前と,天武朝以後にさらに区分し,またもし前期に6世紀中ごろの宣化・欽明朝までを含めるならば,やはり前期も推古朝以前と以後に区分するのが適当であろう。…

【大臣】より

…葛城円(つぶら),平群真鳥(へぐりのまとり),巨勢男人,6世紀中期以降は蘇我稲目・馬子・蝦夷(えみし)ら,大和の地名を氏の名とし武内宿禰の後裔を名のるの姓をもつ有力豪族が,議政官の大夫層を率いて,世襲的に朝政にあたった。なかでも蘇我氏は朝廷の実権者として権勢をふるい,6世紀末大連物部氏を討って大連制を廃した。推古朝,聖徳太子は大臣馬子とならんで大王を補佐する執政方式を実現したが,舒明・皇極朝には蝦夷は再び専権をにぎり,大王勢力と対立,大臣の地位を表示する紫冠を子の入鹿(いるか)に授けて大臣に擬すなどの所為を行い,645年(大化1)中大兄皇子らに滅ぼされ,大臣の制は廃止となった。…

【小墾田宮】より

…発掘調査によれば,宮殿遺構は検出されなかったものの,7世紀前半から中葉ごろ,この地に掘立柱建物,石組み溝,S字状の庭園が営まれていたことが判明した。小墾田の地は,かつて小墾田屯倉(《日本書紀》安閑1年10月条)の存在した地であり,蘇我氏の本拠地の一つであった。蘇我蝦夷は豊浦大臣(豊浦と小墾田はごく近い)と呼ばれたし,また,蘇我氏の同族に,小墾田臣がいた。…

【推古天皇】より

…天皇は初め飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)におり,のち小治田宮に移ったが,即位の翌593年(推古1)4月に甥の聖徳太子(用明天皇皇子)を摂政として,これに万機をゆだねた。この太子の執政をもって,蘇我氏に対抗して皇室の主導権を回復するためにとられた方策とする見方が広く行われているが,この時点はまさに蘇我氏権力がその最盛期に達したときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,天皇も太子もその蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。天皇の治世は,大陸では隋帝国が南北朝を統一して,東アジアに重大な脅威を与えるようになり,朝鮮半島では新羅が国力を強化して,日本のいわゆる任那復興の政策をますます困難にしつつあったが,国内では冠位十二階の制定,十七条憲法の作成,遣隋使の派遣,天皇記,国記以下の国史の編纂などの注目すべき政策が行われ,また飛鳥文化と呼ばれる仏教的色彩の濃い高度な貴族文化が,この時期から大和の飛鳥地方を中心に展開しはじめたことが特徴的である。…

※「蘇我氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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