デジタル大辞泉
「中郡」の意味・読み・例文・類語
ちゅう‐ぐん【中郡】
古代の郡の等級の一。大化の制では4里以上30里以下の郡、大宝の制では8里以上11里以下の郡。→里2
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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ちゅう‐ぐん【中郡】
- 〘 名詞 〙 令制以前の郡の等級の一つ。孝徳天皇の大化二年(六四六)に郡の等級を三等に分けたその第二位で、三〇里以下四里以上の郡。令制では、郡を五等に分け、その第三位をいい、一一里以下八里以上の郡。〔令義解(718)〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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中郡
なかぐん
面積:一三六・四七平方キロ
大宮町・峰山町
江戸時代以降の中郡は、古代―近世初期には丹波郡とよばれ、中郡の呼称の定着はほぼ江戸時代元禄以降と考えられる。古くには大宮町の三重谷一帯が与謝郡、峰山町の橋木地区が竹野郡に含まれていたとする説もあるが、史料的には確認できない。
中郡は府の北部丹後半島の基部中央に位置し、北は竹野川を挟む丘陵が最も狭まる内記・矢田地区を境に竹野郡弥栄町、橋木・石丸地区を境に竹野郡網野町、東は竹野川の源流地高尾山(六二〇・二メートル)・鼓ヶ岳(五六九メートル)の山嶺をもって宮津市・与謝郡岩滝町、南は水戸谷峠・平治峠で与謝郡野田川町、南西は磯砂山(六六一メートル)の山嶺をもって兵庫県出石郡但東町、西は久次岳(五四一・四メートル)・切畑権現山(約四九四メートル)の山嶺を境に熊野郡久美浜町・竹野郡網野町に接する。
丹後半島最大の河川、竹野川が郡内中央を北流、竹野川上流域の三重谷、郡中央部の竹野川流域(中郡平野)、竹野川最大の支流鱒留川流域および小西川の流域などに平野が開ける。
おもな交通路としては国道一七八号で南の野田川町、西の久美浜町と結ばれ、北方の竹野郡弥栄町・丹後町とは主要地方道峰山―丹後線、竹野郡網野町とは同網野―峰山線、東方の与謝郡岩滝町・宮津市とは同網野―岩滝線・丹後半島一周道路で各々連絡する。野田川町とは国道のほか府道野田川―大宮線、西南の兵庫県但東町へは府道鱒留―但東線で通じる。
丹波の郡名を「延喜式」(武田本)神名帳は「タハ」と訓ずるが、「和名抄」刊本は国名としての「丹波」に「太迩波」と訓注しており、従来の研究によっても「タニハ」と読むとされる。しかしいつの頃からか「タンバ」とよびならわすようになり、現在峰山町に残る字名丹波は「タンバ」とよばれる。
郡名は丹後国の設置を伝える「続日本紀」和銅六年(七一三)四月三日条に、一部に欠字があるが、その時「加佐・与佐・丹波・竹野・熊野」の五郡を丹波国より割いて丹後国を置いたとの記事にみえるのが早い。
「古事記」開化天皇の段に「此の天皇、旦波の大県主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命」とあり、「旦波」の字が使われる。この由碁理は丹波郡丹波郷の県主であろうとされる。「丹後国風土記」逸文は「奈具社」の項に「丹 後の国丹波の郡。郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。
中郡
なかぐん
面積:二六・一九平方キロ
大磯町・二宮町
南は相模湾に面し、北の大磯丘陵との間に東西に細長く広がり、北は足柄上郡中井町、北・東は平塚市、西は小田原市に接する。東端を大山の南西秦野市蓑毛の北方に発し相模湾に注ぐ金目川(下流は花水川)、西方を中井町井ノ口から発して南流、当郡二宮町二宮付近で東へ流路を変えて砂丘の北辺を進み相模湾へ注ぐ葛川が流れる。
〔原始・古代〕
縄文時代の遺跡には、中期の遺物包蔵地として古くから知られる二宮町の平台遺跡、後期から弥生時代の墓地と考えられる大磯町の石神台遺跡がある。大磯町には古墳時代の壁刻画のある堂後下横穴群・庄ヶ久保横穴群、最古型から最新型に変化するまでの各形態のみられる楊谷寺谷戸横穴群など横穴群が多数散在、ほかに江戸末期すでに開口していたと「風土記稿」にも記載される釜口古墳がある。
郡域すべてが余綾郡(のち淘綾郡)に属する。「和名抄」にみえる余綾郡の郷のうち伊蘓・余綾・霜見の三郷が含まれ、大住郡の高来郷を含む説もある。「延喜式」神名帳にみえる「川勾神社」が鎮座する。郡内の地名の初見は正倉院御物の天平一〇年(七三八)銘の白布墨書で、「
郡大屋郷大磯里大磯部白髪輸調□□布壱端」とある。東端の現大磯町高麗一帯は霊亀二年(七一六)武蔵国高麗郡(現埼玉県)へ移された高麗人の居住していた地域とされる。なお、歌枕の小余綾ノ磯は、大磯から小田原市国府津辺りまでの海浜一帯をさすといわれ、古く「万葉集」巻一四には
<資料は省略されています>
と詠まれる。「古今集」や風俗歌には「こよろぎの磯」とうたわれるが、その後の歌集や「能因歌枕」など歌学書には「こゆるぎ」とするものが多く、「越ゆ」「揺ぎ」、また磯を「急ぐ」のことばに掛けて歌に詠まれた。「平家物語」巻一〇(海道下)には、平重衡が鎌倉に護送される途次を記して、「足柄の山をもうちこえて、こゆるぎの森、鞠子河、大磯小磯の浦々」とある。後に、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めに従った細川幽斎は、「鎌倉見物のためまかりける道に、大磯といふ所にしばしばとゞまりて、こよろぎの磯を立所の人に尋けるに、この所のよしこたへ侍る」と述べている(東国陣道記)。
〔中世〕
平安時代末期、相模国の国府が大住郡から現大磯町国府本郷付近へ移り、同じ頃川匂神社(現二宮町)周辺一帯には二宮河勾庄(河勾庄)が成立している。
中郡
なかごおり
戦国期以来使用される広域通称。国中を三分した場合の中央部、ほぼ釜無川以東、笛吹川以西の地域をさす。永正四年(一五〇七)七月一六日の願文(熊野那智大社文書)に「甲州中郡住人 しのわら」とみえる。永禄二年(一五五九)二月二一日の願文(同文書)に「かいのくに中こをりくわんもんの事」として、「まんさい」(現竜王町万才)、「大すく」(現芦川村鶯宿)、「三日いちは」(現甲府市)などの地名があげられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の中郡の言及
【郡】より
…中国の郡県制に淵源し,日本での初見は《日本書紀》大化2年(646)正月条の〈改新之詔〉に〈凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下,四里より以上を中郡とし,三里を小郡とせよ〉とあり,このとき郡制が施行されたかのように記されているが,孝徳朝の649年(大化5)に[評](こおり)制が施行されて以来,7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったことは,金石文や木簡などの当時の史料から確かめられている。評も郡もともに〈こおり〉と読まれたらしいが,郡は評を継承しつつ701年(大宝1)の大宝令の制定とともに始まり,〈改新之詔〉はそれにもとづいて作文されたものと考えられている。…
※「中郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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