江戸時代以降の中郡は、古代―近世初期には
中郡は府の北部丹後半島の基部中央に位置し、北は竹野川を挟む丘陵が最も狭まる
丹後半島最大の河川、竹野川が郡内中央を北流、竹野川上流域の三重谷、郡中央部の竹野川流域(中郡平野)、竹野川最大の支流
おもな交通路としては国道一七八号で南の野田川町、西の久美浜町と結ばれ、北方の竹野郡弥栄町・丹後町とは主要地方道峰山―丹後線、竹野郡網野町とは同網野―峰山線、東方の与謝郡岩滝町・宮津市とは同網野―岩滝線・丹後半島一周道路で各々連絡する。野田川町とは国道のほか府道野田川―大宮線、西南の兵庫県但東町へは府道鱒留―但東線で通じる。
丹波の郡名を「延喜式」(武田本)神名帳は「タハ」と訓ずるが、「和名抄」刊本は国名としての「丹波」に「太迩波」と訓注しており、従来の研究によっても「タニハ」と読むとされる。しかしいつの頃からか「タンバ」とよびならわすようになり、現在峰山町に残る字名丹波は「タンバ」とよばれる。
郡名は丹後国の設置を伝える「続日本紀」和銅六年(七一三)四月三日条に、一部に欠字があるが、その時「加佐・与佐・丹波・竹野・熊野」の五郡を丹波国より割いて丹後国を置いたとの記事にみえるのが早い。
「古事記」開化天皇の段に「此の天皇、旦波の大県主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命」とあり、「旦波」の字が使われる。この由碁理は丹波郡丹波郷の県主であろうとされる。「丹後国風土記」逸文は「奈具社」の項に「
縄文時代の遺跡には、中期の遺物包蔵地として古くから知られる二宮町の
郡域すべてが
と詠まれる。「古今集」や風俗歌には「こよろぎの磯」とうたわれるが、その後の歌集や「能因歌枕」など歌学書には「こゆるぎ」とするものが多く、「越ゆ」「揺ぎ」、また磯を「急ぐ」のことばに掛けて歌に詠まれた。「平家物語」巻一〇(海道下)には、平重衡が鎌倉に護送される途次を記して、「足柄の山をもうちこえて、こゆるぎの森、鞠子河、大磯小磯の浦々」とある。後に、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めに従った細川幽斎は、「鎌倉見物のためまかりける道に、大磯といふ所にしばしばとゞまりて、こよろぎの磯を立所の人に尋けるに、この所のよしこたへ侍る」と述べている(東国陣道記)。
平安時代末期、相模国の国府が大住郡から現大磯町
戦国期以来使用される広域通称。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…中国の郡県制に淵源し,日本での初見は《日本書紀》大化2年(646)正月条の〈改新之詔〉に〈凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下,四里より以上を中郡とし,三里を小郡とせよ〉とあり,このとき郡制が施行されたかのように記されているが,孝徳朝の649年(大化5)に評(こおり)制が施行されて以来,7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったことは,金石文や木簡などの当時の史料から確かめられている。評も郡もともに〈こおり〉と読まれたらしいが,郡は評を継承しつつ701年(大宝1)の大宝令の制定とともに始まり,〈改新之詔〉はそれにもとづいて作文されたものと考えられている。…
※「中郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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