安田善次郎(読み)ヤスダゼンジロウ

デジタル大辞泉 「安田善次郎」の意味・読み・例文・類語

やすだ‐ぜんじろう〔‐ゼンジラウ〕【安田善次郎】

[1838~1921]実業家。富山の生まれ。幕末の江戸で両替商安田商店を営んで成功し、維新後、安田銀行に改組、また生命保険損害保険会社を創立し、金融資本中心の安田財閥を築いた。日比谷公会堂・東大安田講堂を寄付。大磯で刺殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「安田善次郎」の意味・読み・例文・類語

やすだ‐ぜんじろう【安田善次郎】

  1. 実業家。富山県出身。幕末、日本橋に銭両替店を開業。以来金融業を営み、多数の銀行を設立、また買収して安田財閥を築いた。晩年、東京帝国大学安田講堂・日比谷公会堂などを寄付し、公共事業にも貢献した。天保九~大正一〇年(一八三八‐一九二一

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朝日日本歴史人物事典 「安田善次郎」の解説

安田善次郎

没年:大正10.9.28(1921)
生年:天保9.10.9(1838.11.25)
明治大正期の実業家。安田銀行(富士銀行)を中核とする安田財閥の創設者。越中国富山生まれ。幼名は岩次郎。父の善悦は幕末に富山藩最下級の武士の身分を得たものの,生活は貧困で現実には半農半商であった。善次郎は利発で商才に富み,地元での成功が困難なことから江戸での立身を志し,少年期から再三出奔を試みている。20歳のとき両親を説得して江戸に出て市内を行商したのち日本橋小舟町の両替店に手代奉公し,両替と金融の経験を積んだ。元治1(1864)年3月,零細な鰹節小商兼銭両替店の安田屋を日本橋人形町の裏通りに開業して独立した。営々と勤倹力行に励み,慶応2(1866)年4月,当時の金融の中心地小舟町(現在の富士銀行小舟町支店所在地)に移ってからは,治安の悪化から同業者の休業や閉店が相次ぐなかで積極的に営業し,明治2(1869)年にはひとかどの両替・金融業者となった。維新後は安田商店と改称し,新政府が発行した不換紙幣(太政官札)をすすんで取り扱い,1万5000両近い利益を手にした。明治政府の将来を信じ,次々に発行された公債の市価が下落するたびに買い向かって成功し,当時屈指の新興の金融業者に成長した。 9年8月第三国立銀行の設立に参画,次いで13年1月に安田商店を安田銀行に改組し,15年には新設の日本銀行理事に就任して,日本銀行を背景に両銀行の経営を発展させた。特に第三国立銀行で,行き詰まった各地の銀行の経営を引き受け,全国的な系列銀行網を持つようになった。現在の富士銀行の支店網は,安田銀行と第三銀行のそれを基盤としたものである。保険にも大きな関心を持ち,26年に帝国海上保険を設立するとともに日本最初の火災保険会社の東京火災保険の経営を引き受けたが,これら両社がのちに安田火災保険となる。翌年には私的な組合として知人たちと始めた共済五百名社を共済生命保険(のち安田生命保険)に改組し,保険業でも最大の先駆者となった。 一代で金融業における最大の成功者となったが,経営者養成の認識が乏しく,また紡績,製釘など金融以外の事業は成功しなかった。明治末年から大正時代には浅野総一郎セメント,埋立築港,海運などの近代事業に融資し,東京市長後藤新平の東京市の開発・市政調査会の大構想に共鳴し,助力しようとした。しかし,仏教の「陰徳」の教えをあまりに重んじたせいもあって,国家・公共の意識の乏しい利己的な実業家との世評をまぬがれることができなかった。このため第1次大戦後の不況に際し,ひとり売りにまわって利益を得たとの噂が広まり,大正10(1921)年9月28日,84歳のとき,神奈川県大磯の別荘で国粋主義者の朝日平吾(1890~1921)に刺殺された(朝日もその場で自殺)。生前約束した東大安田講堂および東京市政会館の寄付は,没後になって実現をみた。茶道,書道に親しみ,「勤倹道人」と自称した。<参考文献>由井常彦編『安田財閥』,矢野文雄『安田善次郎伝』

(由井常彦)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安田善次郎」の意味・わかりやすい解説

安田善次郎
やすだぜんじろう
(1838―1921)

明治・大正期の企業家。安田財閥の創設者。越中国(えっちゅうのくに)(富山県)出身。青年期に江戸に出て、両替商に奉公したのち独立し、1866年(慶応2)日本橋小舟町に安田商店を開業した。慶応年間には古金銀を買い付け、維新後は新政府の紙幣「太政官札(だじょうかんさつ)」を積極的に売買して資本を蓄積した。また公債の大量買い付け、諸官庁や地方の公金の取扱い、業務を拡大し、1876年(明治9)に第三国立銀行を設立し、1880年には安田商店を安田銀行(のちの富士銀行。現、みずほ銀行、みずほコーポレート銀行)に改組した。創立期の日銀の理事となり、松方正義(まつかたまさよし)の信用をかちとり、不安定だった多数の銀行を買収するかたわら、生命保険、損害保険会社を興し、金融中心の安田財閥を築いた。彼は世間的な寄付を好まなかったので誤解され、神奈川県大磯(おおいそ)の別荘で国粋主義者に刺殺された。晩年には日比谷公会堂(ひびやこうかいどう)、東京大学講堂(安田講堂)など独自の公共事業への構想をもっており、それらは死後に実現した。

[由井常彦]

『矢野龍溪著『安田善次郎』(中公文庫)』


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改訂新版 世界大百科事典 「安田善次郎」の意味・わかりやすい解説

安田善次郎 (やすだぜんじろう)
生没年:1838-1921(天保9-大正10)

明治・大正期の実業家。無一文から出発し,一代にして財を築きあげ,安田財閥の祖となった。富山藩の下級士族の家に生まれる。父の善悦の代に士族身分を買ったが,善次郎の幼年時代は農業もあわせ営む貧しい生活であった。1858年(安政5),商業で身を立てる志を抱いて江戸へ出,銭両替商に奉公した。62年(文久2)鰹節商に入婿したが,銭投機に失敗して離縁。64年(元治1)に銭両替商安田屋として独立した。66年(慶応2)に日本橋小舟町に移り安田商店と改称したころから古金銀,太政官札,公債の売買によって巨利を博し,一躍財をなした。80年安田銀行を設立,善次郎が中心となり1876年に設立した第三国立銀行とともに,安田の金融事業の柱となった。その後,銀行新設に参加したり,経営の悪化した銀行を引き受けたりして,一大金融網を築きあげ,〈銀行王〉と呼ばれた。安田系企業を統轄するための持株会社として1912年合名会社保善社を設立した。その間,日本銀行理事,農工商高等会議議員,日本興業銀行創立委員などを務めた。また浅野総一郎,雨宮敬次郎ら実業家の事業を援助した。晩年には日比谷公会堂,東京帝国大学講堂(安田講堂)の寄付や,東京市政調査会の後援など,公共的事業も行った。21年9月,大磯の別荘において暴漢朝日平吾に刺殺された。
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20世紀日本人名事典 「安田善次郎」の解説

安田 善次郎(1代目)
ヤスダ ゼンジロウ

江戸時代末期〜大正期の実業家 安田財閥創始者;安田銀行創立者。



生年
天保9年10月9日(1838年)

没年
大正10(1921)年9月28日

出生地
越中国富山(富山県富山市)

別名
幼名=岩次郎

経歴
20歳で江戸に出、丁稚奉公の末、元治元(1864)年両替商安田屋を日本橋人形町に開くのに成功。慶応2年安田商店と改称。維新直後、太政官札(不換紙幣)の買占めで巨利を博し、明治13年には安田銀行(現・富士銀行)を設立。15年新設の日本銀行理事に就任。日本銀行を背景に両銀行の経営を発展させた。ついで地方国立銀行の合併につとめ、全国的な系列銀行網を持つようになった。さらに26年帝国海上保険(のちの安田火災保険)を設立、27年には共済生命保険(のち安田生命保険)を設立して保険業でも最大の先駆者となり、一代で安田財閥を築きあげた。晩年、日比谷公会堂、東大安田講堂をはじめ、公共事業に多くの寄付をしたが、大正10年大磯の別荘で国粋主義者朝日平吾に刺殺された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安田善次郎」の意味・わかりやすい解説

安田善次郎
やすだぜんじろう

[生]天保9(1838).10.9. 富山
[没]1921.9.28. 神奈川,大磯
実業家。安田財閥の創設者。生家は最下級武士。安政5 (1858) 年江戸へ出て玩具商,海産物・両替商,唐物商に奉公。文久3 (63) 年独立し日本橋小舟町で露店銭両替商を開業,翌年には日本橋乗物町に両替屋兼小売商を開業し屋号を安田屋 (66年安田商店と改称) と称した。その後世情不安のなかで幕府依頼の古金銀の買集めで利を得,次いで明治維新後も太政官札を買集めて巨利を得た。 1874年以後は司法省ほか諸官庁の公金取扱い御用を引受けることとなり,金融業者として急成長した。 76年第三国立銀行開業の認可を受け,さらに 80年安田商店を安田銀行として発足させ,97年には銀行5行,保険会社3社,ほかに事業会社4社を手中に収めるにいたった。また 82年日本銀行設立にも参画して理事に就任し銀行家としての基盤を確立,1904年には第百三十銀行を援助し,国家財政の危機を救うなど手腕をふるった。晩年には日比谷公会堂,東京大学講堂を寄付するなど社会事業に尽力したが,大磯の別荘で国粋主義者朝日平吾に刺殺された。

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百科事典マイペディア 「安田善次郎」の意味・わかりやすい解説

安田善次郎【やすだぜんじろう】

明治・大正の実業家。富山の人。幕末江戸に出て両替商を開き,維新期の混乱に乗じて巨富を積んだ。第三国立銀行,第四十一国立銀行,安田銀行を創立し安田財閥を築いた。日比谷公会堂・東大安田講堂を寄付して社会事業にも尽力。大磯で朝日平吾によって刺殺。
→関連項目浅野総一郎安田火災海上保険[株]安田生命保険[相互会社]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安田善次郎」の解説

安田善次郎
やすだぜんじろう

1838.10.9~1921.9.28

明治・大正期の実業家。安田財閥の祖。越中国生れ。江戸に出て両替商に奉公,1864年(元治元)他の商売も兼営する両替店安田屋を開業,古貨幣・太政官札・公債などの取引,官公預金などで蓄財した。76年(明治9)第三銀行の設立に参加,80年安田商店をもとに安田銀行を開業した。第百三十銀行など多くの銀行の救済や設立にかかわり,系列銀行として銀行網を形成する一方,生命保険・損害保険業にも進出し安田財閥の基礎を築いた。1921年(大正10)大磯の別荘で国粋主義団体のメンバー朝日平吾に暗殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安田善次郎」の解説

安田善次郎(初代) やすだ-ぜんじろう

1838-1921 幕末-大正時代の実業家。
天保(てんぽう)9年10月9日生まれ。江戸日本橋で両替商をいとなむ。太政官札の売買などで財をなし,明治9年第三国立銀行,13年安田銀行(富士銀行の前身)を設立。以後,両行を柱に各地の銀行を吸収合併して金融業中心の安田財閥をきずく。大正10年9月28日朝日平吾に刺殺された。84歳。日比谷公会堂,東大安田講堂を寄付。越中(富山県)出身。幼名は岩次郎。
【格言など】人のもっとも心すべきは,発心,実行,継続の三つである

安田善次郎(2代) やすだ-ぜんじろう

1879-1936 大正-昭和時代前期の経営者。
明治12年3月7日生まれ。初代安田善次郎の長男。大正10年家督をつぎ,善次郎を襲名。安田財閥をひきい,安田保善社総長をつとめる。安田銀行・安田貯蓄銀行各頭取,安田信託社長などを歴任した。昭和11年11月23日死去。58歳。初名は善之助。

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旺文社日本史事典 三訂版 「安田善次郎」の解説

安田善次郎
やすだぜんじろう

1838〜1921
明治・大正時代の実業家
越中(富山県)の生まれ。江戸で丁稚 (でつち) 奉公から両替商を開き,明治維新後太政官札の買占め,政府の為替御用などで巨利を博した。1876年第三国立銀行,'80年安田銀行・五百名共済社(のちの安田生命)をおこし安田財閥を築いた。晩年には日比谷公会堂・東大安田講堂を寄付するなど社会事業に尽力したが,1921年右翼青年に暗殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の安田善次郎の言及

【富士銀行[株]】より

…日本有数の都市銀行。1864年(元治1)安田善次郎が江戸日本橋に開業した両替商安田屋が前身。66年安田商店と改称。…

【安田財閥】より

…四大財閥の一つ。明治・大正期の実業家安田善次郎が一代で築きあげた銀行,保険など金融業を中心とした財閥。 1864年(元治1)に安田善次郎が江戸で始めた銭両替商安田屋が出発点となった。…

※「安田善次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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