養老令の公的注釈書。10巻。826年(天長3)に明法博士(みようぼうはかせ)額田今足(ぬかたのいまたり)が,律令の解釈を統一する必要性を上申したのを契機として,国家の事業として編纂がすすめられ,833年(天長10)に完成し,翌年(承和1)に詔によって施行された。編纂者は右大臣清原夏野(きよはらのなつの)ほか11人。そのなかには興原敏久(おきはらのみにく),讃岐永直(さぬきのながなお)などの明法家(律令学者)のほかに,菅原清公(すがわらのきよとも),小野篁(おののたかむら)などの著名な文筆家が加わっている。その令文解釈は,それまで行われていた多くの明法家の解釈の中道をとり,おおむね妥当だが,まま机上の空論にすぎないと思われるもの,当時の慣行に基づく解釈で令の本来の意味とは異なるものなどがみられる。しかし詔によって施行されたため,その解釈は以後法に準ずるものとして扱われた。養老令は,そのものとしては現存しないが,本書によってその大部分を知ることができる。《新訂増補国史大系》所収。
→養老律令
執筆者:早川 庄八
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養老(ようろう)令の公定注釈書。10巻30編。826年(天長3)の明法博士(みょうぼうはかせ)額田今足(ぬかだのいまたり)の建議に基づき、829年から右大臣清原夏野(きよはらなつの)ら12人が淳和(じゅんな)天皇の命によって編纂(へんさん)にあたり、833年に完成、その翌年に養老令の公権的な解釈として施行され、令の本文に準ずる規制力をもった。日本の令は中国の令を参考にしてできあがったものであるが、実施にあたりいろいろな疑義が生まれ、解釈の相違もあって、実際の政治担当者としては処置に迷うことが多かった。そこで、公的な解釈の規準を設けるためにこの書がつくられたのである。今日、養老令の本文は本来の令の形では伝わらないが、本書によってその本文を知ることができる。ただし、倉庫令、医疾令の2編が欠けているので、これらの部分は逸文を集めたものが利用されている。『国史大系』所収。
[皆川完一]
養老令の官撰注釈書。10巻。右大臣清原夏野(きよはらのなつの)を総裁とし,その他多くの学者・文人を撰者とした。額田今足(ぬかたのいまたり)の進言により826年(天長3)編纂を始め,833年完成・奏上し,翌年施行した。本書の完成・施行により令文の解釈は確定し,他の解釈は許されないこととなり,注釈そのものも法としての強制力をもった。解釈は諸学者の注釈書を参考にして行われているが,とくに「令釈」にもとづくところが多い。養老令そのものがまったく残っていないので,本書の引用する養老令条文は貴重な史料である。現存する写本で欠けている部分を「令集解(りょうのしゅうげ)」などから復原したものをあわせて「国史大系」に収める。
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…岑守は《内裏式》《凌雲集》などの撰者として高名だが,その子篁は若年のころ弓馬に熱中して学問を顧みなかったため嵯峨天皇を嘆かせた。これによって一念発起した篁は学業に精励し,822年(弘仁13)文章生の試験に及第し,以後巡察弾正,弾正少忠,大内記,蔵人,式部少丞,大宰少弐等を歴任,833年右大臣清原夏野らとともに撰述した《令義解(りようのぎげ)》の序文を書いた。同年東宮学士,弾正少弼となり,834年遣唐副使に任命されたが,翌々年進発した遣唐船は難破して渡航に失敗,さらに翌年の渡航も失敗した。…
※「令義解」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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