日本歴史地名大系 「中野久木村」の解説 中野久木村なかのくきむら 千葉県:流山市中野久木村[現在地名]流山市中野久木・江戸川台西(えどがわだいにし)一―二丁目・江戸川台東(えどがわだいひがし)一―二丁目・富士見台(ふじみだい)など桐(きり)ヶ谷北(やきた)村の北に位置する。村域は東西に長く、西を江戸川に画され、東は台地の奥で上野(かみの)牧と接する。南東の初石(はついし)新田は当村などが上野牧内に開発した新田村である。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。中野久喜・中之久木などとも記された。延宝二年(一六七四)の新田帳覚(秋元家文書)では反別一一町四反余。同覚に石高の表示はないが、堤敷四反余を除いて旗本永田領八町余・同戸田領二町八反余に分れていた。寺を含めて一六名が名請しており、田畑所在を示す字には下谷(したや)・上谷など江戸川低地の地名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一〇八石余。宝永六年(一七〇九)の反歩改帳(秋元家文書)によると永田氏知行分は拝領高七九石余であったが、同年の検地で打出しがあり、田方一一町七反余・畑方九町余、高一〇〇石余となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報