野付村(読み)のつけむら

日本歴史地名大系 「野付村」の解説

野付村
のつけむら

[現在地名]野付郡別海町野付

明治初年(同二年八月から同六年の間)から大正一二年(一九二三)まで存続した野付郡の村。野付郡の北東部に位置し、根室海峡にエビ状に突出した野付半島の地域。同半島の付根にあたるポンニツタイで茶志骨ちやしこつ(現標津町)と境し、北東は野付水道を挟んで国後くなしり島、南は根室湾。西には半島が抱え込む野付湾(尾岱沼ともいう)があり、対岸平糸ひらいと村。砂地湿地からなり、野付湾内に向かった岬群の一部にトドマツミズナラなどの樹木が生える。近世にはネモロ場所のうち。明治初年ノツケの地を包含して「ノツケ村」が成立。同八年五月には村名の表記が野付村と漢字に改められた(開拓使根室支庁布達全書)。明治三年(一八七〇)七月、函館物産掛は能登の農民一〇戸・三七人(男一八・女一九)大工職二戸・五人(男三・女二)、鍛冶職一戸・二人を募り野付村へ移住させ、漁業開墾などに従事させ、移住の月から一八ヵ月間は一日一人玄米五合を支給、同年一二月には越年のため一戸につき糯米五升を給与した。


野付村
のつきむら

[現在地名]合志町福原ふくはら

合志台地の中央部にあり、竹迫たかば町に北接する畑作地帯。戦国末期の寺社方家中侍中名附写(厳照寺文書)に「一田五反三畝 野付村天神宮 一畑四反六畝 同村薬師」とみえ、合志氏の土地寄進を伝える。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によれば、畠・屋敷五四町四反七畝余、分米三一九石余。同一三年の検地帳では、屋敷持八・家数二三・人数二五、牛馬九、田一町二畝余・畠七三町七反余・屋敷九反七畝余、分米四三七石六斗とある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳によると竹迫組に属し、戸数九・家数七〇、人数七九(うち庄屋一・百姓七・名子八・下人四)、牛馬三〇、高四三七石六斗。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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