中野沢村(読み)なかのさわむら

日本歴史地名大系 「中野沢村」の解説

中野沢村
なかのさわむら

[現在地名]むつ市中野沢

下北丘陵に発し、陸奥湾に西流するまえ川の下流右岸に位置する。北はちか川を隔てて奥内おくない村、南はさかい川を隔てて野辺地のへじ横浜よこはま(現上北郡横浜町)と接する。東の冷水ひやみず峠をもって白糠しらぬか村・小田野沢おだのさわ(現下北郡東通村)へ通じる。康正年間(一四五五―五七)の蠣崎の乱の頃は「中山」と称したというが(東北太平記)委細をつまびらかにしない。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に中沢村三八石余とあり、同年の郷村帳によれば三八・九七三石のうち、一九・七三五石が田であった。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高四四・七石余、うち畑八・七石余とあり、戸口は三五軒・二〇九人。


中野沢村
なかのさわむら

[現在地名]象潟町西中野沢にしなかのさわ

象潟海岸に沿い、北はせき村、東は本郷ほんごう村、南は洗釜あらいかま村に接する。

文禄元年(一五九二)八月二〇日、仁賀保兵庫頭が仁賀保宮内少輔にあてた知行配当之覚(秋田藩家蔵文書)に中沢村の名がある。慶長七年(一六〇二)仁賀保氏が常陸へ転封後、最上氏領となる。同一七年の由利郡御検地帳(本荘市立図書館蔵)には「苅本出苗代共ニ 合五千六百四拾壱束苅 米同合八拾石九斗五升二合五勺」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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