デジタル大辞泉
「むつ市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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むつ市
むつし
面積:二四六・五四平方キロ
下北半島のほぼ中央に位置する。南から大湊湾(陸奥湾)が深く湾入し、北は津軽海峡に面する。南は陸奥湾に注ぐ境川で上北郡横浜町と境し、東はほぼ下北丘陵に沿い下北郡東通村と接する。西に恐山火山群が連なり、その外輪山をなす屏風山(五八〇・三メートル)・大尽山(八二七・七メートル)などをもって同郡大畑町、大尽山から陸奥湾に達する尾根をもって同郡川内町と接する。恐山中の宇曾利山湖と同湖北岸にある地蔵堂の境内一帯は当市の飛地となっている。
下北丘陵に発する田名部川が市の中央部を貫流し、大湊湾に注ぐ。田名部川の下流流域には沖積平野が広がる。市の西部には恐山の寄生火山釜臥山(八七八・六メートル)がそびえ、大荒川・永下川・大川目川などが南流して陸奥湾に注ぐ。北部では出戸川・美付川などが北流して津軽海峡に注ぐ。市の中央部を南北に国道二七九号が縦断し、東西に国道三三八号が横断して市街中心地で交わる。国道二七九号に沿い国鉄大湊線・大畑線が北進する。現市名は昭和三五年(一九六〇)の市名変更以来のものである。
〔原始・古代〕
女館・最花からそれぞれ縄文時代前期末・中期末の貝塚が発掘されている。最花貝塚は目名から下田屋(東通村)に連なる台地の端にあり、現在の海岸線から十数キロ奥まで海進のあったことが推定され、標高二―三メートルの現在の市街地は縄文時代の前期初頭まで海底下にあったものと考えられる。田名部川の河口右岸にある金谷貝塚は前期初頭のもので、現在下北半島では最古の貝塚遺跡とされる。
〔中世〕
現下北郡とともに糠部郡に属し、宇曾利郷とよばれた。鎌倉末期には安東(安藤)氏の支配下にあったが、正中二年(一三二五)の安藤宗季譲状(新渡戸文書)に「たやたなふあんとのうらをは によしとらこせん いちこゆつりしやうをあたうるところなり」とあり、現むつ市一帯が一期分として女子とら御前に与えられている。安東氏の支配は蠣崎の乱の終結する康正三年(一四五七)頃まで続いたものと考えられ、以後根城南部氏の支配下に入った。
「東北太平記」の伝えるところでは、建武元年(一三三四)南部師行により武田修理と赤星五郎が「北部」の目代として配され、赤星氏は田名部館、武田氏は蠣崎城(現下北郡川内町)に拠ったという。正平三年(一三四八)護良親王の遺児源良尹が根城南部氏六代信政に守られて順法寺城へ入城し、その子孫は代々「北部王家」と称された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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むつ〔市〕
むつ
青森県北部,下北半島にある市。南に大湊湾を抱える。1959年田名部町,大湊町の 2町が合体,大湊田名部市として市制。1960年むつ市に改称。2005年川内町,大畑町,脇野沢村を編入。大湊は江戸時代,盛岡藩の港町で,第2次世界大戦中は軍港として栄えた。田名部は下北半島の行政,経済,文化の中心地。台地では酪農も行なわれる。市域西部の山地では林業が主産業,また陸奥湾および津軽海峡沿岸ではイカ漁などが盛ん。日本三大霊場の一つ恐山があり,毎年 7月の恐山大祭は,イタコ(巫女)の口寄せ(霊媒術)が多数の参詣客を集める。1969年大湊港に原子力船『むつ』の母港として,下北埠頭(長さ 176m,幅 26m)が完成したが,漁民の反対もあって 1976年に母港を返上した。下北半島国定公園の観光基地。南西端地域には野生のニホンザルが生息し,下北半島のサルおよびサル生息北限地として国の天然記念物に指定されている。また湯野川温泉,薬研温泉などの温泉地もある。JR東北本線野辺地駅から大湊線で結ばれる。国道279号線と国道338号線が通る。面積 864.12km2。人口 5万4103(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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