朝日日本歴史人物事典 「乳井貢」の解説
乳井貢
生年:正徳2(1712)
江戸中期の津軽藩(青森県)勘定奉行,元司。本名は市郎左衛門建福(一説に建富)。宝暦3(1753)年勘定奉行に就任し,藩の行財政改革を断行。宝暦5年の大飢饉の際は,果断の対応により領内から餓死者を出さなかった。改革当初,目ざましい治績をあげ年貢収納に功あって藩主津軽信寧より「貢」の名を賜う。改革半ばにして標符(藩札の一種)を発行,経済的混乱を誘発し,8年蟄居処分。安永7(1778)年再出仕し改革に挑むが,反対派の策動で失脚。9年知行を召し上げられ,辺境の地川原平に幽閉。幽閉地では水田を開き村人に数学,漢学を教え,慕われた。天明4(1784)年許されて弘前塩分町に閑居し,詩文俳諧を楽しみ,かたわら数学を講じて余生を終えた。『志学幼弁』などの書を著して朱子学を批判し,空理空論を排して社会に有用な実学を重んじた。豊臣秀吉の朝鮮出兵と赤穂四十七士への批判は痛快。<著作>『乳井貢全集』<参考文献>小島康敬「津軽藩士乳井貢の思想」(『北奥地域史の研究』)
(小島康敬)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報