明治以前の日本人が研究した数学。研究者により,その初めを,(1)上古,(2)1627年(寛永4)刊の吉田光由著《塵劫記(じんごうき)》,(3)74年刊の関孝和著《発微算法(はつびさんぽう)》とする3通りがある。
養老令(718)によれば,官吏養成のための学校である大学寮を設置し,現在の中学生くらいの少年がここで勉強した。この課程の中に数学があり,定員は算博士2人,算生30人であった。修了後は,租税や記帳などの役人となった。ここで使われた教科書は,中国および朝鮮の古算書である。《九章算術》《孫子算経(そんしさんけい)》《五曹算経(ごそうさんけい)》《三開重差(さんかいじゆうさ)》などである。これより前,孝徳天皇の大化2年(646)の詔に,〈書算に工(たくみ)なる者を主政主帳とせよ〉とあるから,民間人の中に数学をよくする者がいたのであろう。大学寮で学ばれた数学は,今日の目で見ても程度が高かった。しかし,日本人自身が開拓した数学ではなく,そのためか,中国,朝鮮の数学は定着しなかった。この中で,日本人の文化的財産となったのは〈九九〉だけである。その当時,掛算は〈九九八十一〉から始まり,〈一一の一〉で終わる順である。掛算の最初が〈九九〉であるため,これを〈くく〉と呼ぶ。《万葉集》の中には,〈八十一〉と書いて〈くく〉と読ませる個所が多い。なかには,〈十六〉を〈しし〉,〈三五月〉を〈もちづき〉と読ませるところもある。日本で,掛算が〈一一の一〉から始まるようになったのは,織豊時代のことである。平安時代に著された《口遊(くちずさみ)》(970)は,貴族の子弟のために家庭教師が著作した教科書であるが,この中に〈九九八十一〉から始まる〈九九〉と,竹をたばねたとき,その周囲の竹の本数を知って,竹の総本数を求める問題がある。
この時代に,日本人がどのような数的知識をもっていたかを知る資料はきわめて少ない。五山文学の中に,僧侶たちが掛算の〈九九〉を利用した記録が少なからずある。寺社領や荘園の境界争いの記録に,当時の測量法の一端が見られる。鎌倉時代末期の百科事典《二中歴》に,〈三方陣〉と〈継子立〉が掲載されている。室町時代になると,数学遊戯に類する問題がよく行われた。虎関師錬の《異制庭訓往来》には,〈十不足〉〈百五減〉〈盗人隠〉〈左々立(ささだて)〉などの碁石を使って遊べる遊戯が並べられている。《簾中抄(れんちゆうしよう)》には,〈継子立〉と〈目付字(めつけじ)〉の記事がある。継子立は吉田兼好の《徒然草》第137段にも出てくるのであるから,広く知られていたのであろう。そのほかに,文字あて遊びの〈目付字〉も室町時代から始まっている。すでに二進法が利用されているのである。
織豊時代の数学を知るには,日本にきた宣教師ロドリゲスの《日本大文典》(1604-08)が便利である。加減乗除を当時の人がどのようにやったか,ある程度知ることができる。計算器具としては上古以来算木が使われていたが,室町時代に中国から日本に伝わったそろばんは日本式に改良されて広く利用された。室町・織豊時代の数学をまとめたと思われる刊本数学書《算用記(さんようき)》(龍谷大学蔵)がある。これを増補訂正したのが毛利重能(もうりしげよし)著《割算書(わりさんしよ)》(1622)である。同じころ,佐渡に渡ってきた百川治兵衛は弟子のために巻物の《諸勘分物(しよかんぶもの)》第2巻(1622)を書き残している。両書とも区分求積法らしき方法がある。幼稚な測量,級数なども解説されている。円周率は3.16または3.2で,3.16は永く使用された。
毛利重能の弟子に吉田光由(1598-1672)と今村知商がいる。それぞれりっぱな著書を残している。この2著がその後の和算の出発点となった。吉田は豪商角倉家の一員で,一族の素庵(そあん)から中国の《算法統宗(さんぽうとうそう)》(1593)を与えられ,これを手本として《塵劫記》(1627)を刊行した。この書は挿絵が多く入れられ,懇切ていねいな解説で,師なくしてその当時の数学がすべて理解できるようにくふうされている。度量衡,そろばんによる乗除,比例,利息,求積,測量その他が書かれている。なかでも数学遊戯が多く採用されているのが特徴である。何回も改版された。1631年版には,多色刷りの挿絵まで入れられている。今村の《竪亥録(じゆがいろく)》(1639)は《塵劫記》とはまったく対照的に,説明も漢文で書かれ,内容も当時最高の公式をまとめた公式集である。今村自身のくふうも含まれている。その翌年,今村は短歌の形式で,公式集《因帰算歌(いんきさんか)》(1640)を出版し,初心者の要求にこたえた。41年,吉田は従来の《塵劫記》とは編集のしかたが違う小型3巻本の《塵劫記》を出版し,巻末に世間の数学者に挑戦する問題12問を付した。この問題は多くの数学者に興味を与えた。これに初めて答えを公表したのが榎並和澄(えなみともすみ)著《参両録(さんりようろく)》(1653)である。榎並は,吉田の問題を批判し,自分ならもっとよい問題が提出できるとし,8問を巻末に付した。前者の問題(遺題)の解答を示し,自分も新たに出題する形式を遺題継承という。それ以後,多くの数学書が遺題継承の形式を採用している。《塵劫記》以来,数学の問題が急速にむずかしくなったのは,この遺題継承によるためである。
《塵劫記》以来発展してきた数学の各分野を集大成したのが礒村吉徳(?-1710)の《算法闕疑抄(さんぽうけつぎしよう)》(1659)である。礒村は二本松藩の作事奉行で,本書はそろばんを使って解ける最高の問題がていねいに解説されている。そのころ円周率は3.16を使ったが,中国の《算学啓蒙(さんがくけいもう)》(1299)が覆刻された(1658)ことで,3.14とどちらが正しいかが話題となった。播州赤穂藩士の村松茂清は,円に内接する正215角形の周を計算して,3.1415926……を得,この計算過程を《算俎(さんそ)》(1663)に掲載した。礒村も村松も江戸に塾をもち,多くの数学者を養成した。
17世紀の中ごろ,京都では中国の元時代に発明された天元術(算木を使う器具代数)が広まった。さらに《算学啓蒙》の覆刻が拍車をかけた。沢口一之は天元術の解説を掲載した《古今算法記》(1671)を出版し,その巻末に天元術では解けない遺題15問を示した。天元術では,数字係数の一元高次方程式か連立多元一次方程式しか扱えない。沢口は,従来使われてきた弧積や弧長を求める公式が正しい公式ではないことも示した。沢口の遺題に解答を与えたのが関孝和(1640ころ-1708)の《発微算法》(1674)である。関は,算木を使わず,筆算による文字係数の多元高次方程式を表すことに成功し,これによって中国数学から独立することができた。関の業績は多方面にわたり,またその業績があまりにすぐれ,前の時代と隔絶しているかに見受けられるが,関の研究対象は,《塵劫記》以来発展してきた数学をきちんと理論づけたものであり,外国人ならびに一部の日本人がいう西洋数学の影響は考えなくともよかろう。関の弟子に建部賢弘(1664-1739)がいる。兄2人につれられて関の弟子となった。関の業績が今日に伝わったのは,次兄賢明(かたあき)(1661-1716)と賢弘の協力による。賢弘は後に8代将軍吉宗の信任をえ,天文・暦算の顧問となる。日本地図作製の責任者ともなった。中国から輸入された西洋暦算書の訓点を中根元圭(1662-1733)の協力をえて施す。あるいはオランダ船の船長と会見するなど多方面で活躍した。賢弘の業績の中で特筆すべきは,数学方法論の書《不休綴術(ふきゆうてつじゆつ)》(1722序)を書き残したことである。本書は,数学を考える基本を帰納法に置き,帰納法がいかに有効かを実例を示して解説している。その実例の中に,(arcsinx)2のべき級数展開の方法が示されており,これは世界で最初に示された公式である。賢弘はそのほかに,ディオファントス近似問題,指数1/2の二項展開など,すぐれた業績を残している。彼は暦算の助手として京都の中根元圭を呼び,吉宗に推挙した。中根は,建部の業績を松永良弼(1690ころ-1744)や久留島義太(?-1757)に伝えた。久留島は天才と呼ばれるにふさわしい数学者であるがまとめることをせず,親友の松永の著作中にその多くが含まれていると思われる。松永の主著《方円算経(ほうえんさんけい)》(1739稿)には,三角関数,逆三角関数のべき級数展開などが示されている。一方,関西では鎌田俊清(1678-1747)が《宅間流円理(たくまりゆうえんり)》(1722序)をまとめ,arcsin xやsin xのべき級数展開を示している。
松永良弼の弟子山路主住(1704-72)は,中根元圭,松永良弼,久留島義太の業績を受け継いで,これを弟子に伝えた。彼自身の業績としては循環小数の研究がある。山路家は代々天文方に勤めた。山路の弟子には,久留米藩主有馬頼徸(よりゆき)(1714-83),安島直円(あじまなおのぶ)(1732-98),藤田貞資(1734-1807)らがいる。安島は山路の作暦の手伝いをし,暦学の研究にすぐれた研究を残した。円柱と円柱の相貫部の体積を二重積分を使って求めたり,二項級数の完成,逆対数表を用いて計算する方法を見つけたり,円の中に円を内外接させる問題を共通接線の長さを利用して解く方法を開拓するなど,すぐれた業績を残した。有馬は大名であると同時にすぐれた数学者である。彼は数学者を藩士にするという形で何人も援助している。著書も多いが出版したのは《拾璣算法(しゆうきさんぽう)》(1769)だけである。代数式の立て方や図形,級数その他について,当時最高の問題を整理した数学書で,この書は広く歓迎された。有馬に召し抱えられた藤田貞資は,有馬の援助により中級程度の教科書《精要算法(せいようさんぽう)》(1781),算額の問題を集めた《神壁算法(しんぺきさんぽう)》(1789)などを刊行し,名声を博した。子の嘉言(かげん)(1772-1828)も有馬家に仕え,親子2代にわたり多数の数学者を育てた。中根元圭の子彦循(げんじゆん)(1701-61)も有馬の質問に応じている。彦循は数学遊戯の書《勘者御伽双紙(かんじやおとぎそうし)》(1743)を出版した。この書は代表的な数学遊戯の書として今に至るまで読まれている。そのころ,山形から江戸に出て,数学者になろうと考えた会田安明(1747-1817)は,藤田貞資の弟子になろうとして果たせず,藤田の名著《精要算法》を批判した《改精算法(かいせいさんぽう)》(1785)を出版したことから,藤田の属する関流と,会田が起こした最上流(さいじようりゆう)とで論戦が始まった。この論戦は約20年続き,これによって討論らしきものができかかった。また,この当時は,江戸初期から始まった算額奉掲(さんがくほうけい)がもっとも盛んな時期で,算額が掲げられた社寺の絵馬殿が学会発表の様相を呈した。
安島直円の弟子日下(くさか)誠(1764-1839)は,多くの数学者を育てた。和田寧(1787-1840),長谷川寛(1782-1838),内田五観(1805-82)らである。和田は数多くの定積分表を作製し,それを弟子に与えた。和田の表により,いろいろな平面図形や立体図形の周,面積,体積の求積はたやすく求まるようになった。彼は微分に関してもフェルマーの方法を見つけている。長谷川と内田はそれぞれ多数の数学者を養成し,しかもその塾から多くの数学書を刊行している。長谷川の塾を長谷川数学道場といい,千葉胤秀,山本賀前,秋田義一らの数学者が輩出した。出版した数学書も,《算法新書》(1830),《大全塵劫記(たいぜんじんこうき)》(1832),《算法地方大成》(1837)など,いずれもベストセラーになっている。長谷川の業績中,変形法,極形法という方法は,ある図形を変形してもそこに成り立つ性質が不変である関係を利用して,複雑な図形の性質を単純化して関係式を導く方法で,《算法変形指南》(1820),《算法極形指南》(1836)にまとめられている。長谷川の塾は,養子の長谷川弘(1810-87)のときにさらに発展した。一方,内田五観の塾は,瑪得瑪弟加(まてまてか)あるいは詳証館(しようしようかん)という。内田は高野長英に蘭学を学んでおり,塾の名はそこからきている。弟子には剣持章行(1790-1871),法道寺善(ほうどうじぜん)(1820-68),川北朝鄰(1840-1919),その他多数の数学者がいた。法道寺は観山と号し,その観山が新しく見つけた方法であるとして,《観新考算変(かんしんこうさんべん)》を各地に書き残している。算変法は今日の反転法に相当する。これは〈円線一致術〉ともいわれる。長谷川の変形法や極形法にヒントをえた方法である。法道寺は全国各地を歩き回り数学を指導したが,これは日本各地に数学愛好家がいて,このような旅の数学者を待ち望んでいたからである。古くは大島喜侍(おおしまきじ)(?-1733),幕末には山口和(?-1850),佐久間纘(1819-96),剣持章行がそうである。彼らによって日本のすみずみにまで数学が広まったといってよいであろう。明治10年(1877),神田孝平(1830-98)の提案で,日本中の数学者を集めて学会を作ることになった。これが日本最初の学会である日本数学会の前身の東京数学会社である。初めは西洋数学(洋算)の普及に尽力し,やがて数学用語の統一に貢献した。長谷川弘の弟子岡本則録(1847-1931)はこの学会の発展に尽力した中心人物の一人である。和算の終りをこの東京数学会社の発足に置く学者が多い。その後の和算は数学史の一分野として研究されることになった。和田寧の孫弟子遠藤利貞(1843-1915)による《大日本数学史》(1896)が和算史の第一歩となった。遠藤の没後これを三上義夫(1875-1950)が増補訂正して《増修日本数学史》(1918)にまとめた。和算史の研究は,林鶴一(はやしつるいち)(1873-1935),小倉金之助(1885-1962),藤原松三郎(1881-1946),細井淙(1901-61)その他により続けられている。
執筆者:下平 和夫
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江戸時代、日本で独自に発達した数学。江戸時代初期からのわが国の数学をすべて和算という場合もあり、日本独自の発達を始めた関孝和(たかかず)以後の数学をいう場合もある。和算ということばは洋算に対するものである。明治維新前後、西洋の数学が移入されたとき、これを洋算とよび、これに対して日本古来の数学を和算と称したもので、歴史的には新しい名称である。江戸時代には和算ということばはない。なお、明治時代の和算家は和算を「わさん」とよんでおり、「わざん」という呼び方はごく最近のことである。
歴史的にみると、日本の数学は3回にわたって外国の影響を受けている。第1回は奈良時代の少し前、第2回は江戸時代の以前、室町末期で、いずれも中国から数学が移入された。第3回は明治維新の少し前で、これは、西洋から数学が移入された。3回とも、それらの数学の移入が、それに続く時代の文化の発展に大きく寄与したという点では共通している。
[大矢真一]
最初の数学の移入の特徴は、計算器具としての算木(さんぎ)と掛け算のための九九の渡来である。九九は非常に歓迎され、広く一般に普及した。その痕跡(こんせき)は『万葉集』にもみえている。すなわち、そこでは「八十一」と書いて「くく」と読ませ、「十六」と書いて「しし」、あるいは逆に「二五」と書いて「とお」と読ませるなどの例がいくつか存在する。九九はその後も忘れられることはなかった。数学のまったく衰えてしまった平安時代から鎌倉時代・室町時代にかけても『口遊(くちずさみ)』『拾芥抄(しゅうがいしょう)』などには九九の表がみえている。
奈良時代には大学で数学が学習された。教えるのは算博士(はかせ)であり、学習者は算生とよばれた。そこで用いられた教科書は中国唐代のものに類似するが、それとは多少の相違がある。これは朝鮮の学制によったためであろうといわれる。その水準は相当に高く、『九章算術』そのほかの高度な数学が学習された。しかし、平安時代のなかば過ぎになると、算博士は世襲となり、学力も低下し、単に名のみのものとなってしまった。鎌倉時代から室町時代にかけては、数学はまったく衰えて、簡単な計算と数学遊戯が行われるだけになった。
[大矢真一]
室町時代も末になると、商工業が盛んになり、数学の必要性も増してきた。この時期に中国から2回目の数学の伝来があった。第2回に伝来した数学の特徴は計算器具としてのそろばんと、そろばんによる割り算に用いられる「割り声」(割り算九九)とであった。これらは当時、中国に往来した貿易船によって持ち帰られたものらしい。そのほか2、3のそろばん用の数学書も持ち帰られた。
江戸時代の直前のころには計算の必要性が非常に強まった。そのため京都・大坂地方ではそろばん塾のようなものが生まれた。そこではそろばんによる計算とそれを用いる簡単な問題とが教えられた。そこで取り扱われた問題は、主としてそのころまで存在していた日本在来の数学である。
以上のような、そろばんによる計算法と、日本在来の数学を掲載したものに毛利重能(しげよし)の『割算書』(1622)がある。同じころの数学書もいくつか残っているが、その内容は大同小異である。続いて出版された数学書は吉田光由(みつよし)の『塵劫記(じんごうき)』(1627)である。この書は、中国から伝えられた体系的なそろばん用数学書『算法統宗』(1593)を手本にしたものであり、『割算書』に比べてはるかに系統的で、分量もずっと多かった。そろばんを使うという点では共通であったが、『割算書』は古い数学を締めくくったもの、『塵劫記』は新しい数学を始めたものといえるであろう。
この『塵劫記』は、そろばんの計算法(図解入り)、日用諸算、大きな数の計算、数学遊戯などを含んでおり、非常な好評を博してしばしば版を重ねた。著者の光由は改版のたびにその内容を新しくした。『塵劫記』初版出版から10年余りたったころ、今村知商(ちしょう)の『竪亥録(じゅがいろく)』(1639)が出版された。これは『塵劫記』が日用諸算を中心としたのに対し、純粋に数学的な材料だけを掲載した水準の高い書物であった。当時、そうした書物が求められるほど数学研究者の数が増えていたのである。これに刺激されたのであろう、それから2年後、吉田光由はまったく新しい『塵劫記』の新版(1641)を出版した。この書物は大きな数を多数含んでいるが、もっとも特徴的なことは、巻末に解答をつけない問題を12題載せ、研究者たちに対して、この問題に答えよと挑戦していることである。このような問題を「好み」あるいは「遺題」という。この遺題を研究した人々は、その解答を自己の著書に載せ、同時にまた自分のつくった遺題をその著書につけた。この遺題継承によって和算は急速な進歩を示した。
[大矢真一]
遺題継承で次々と新しい問題が生まれるようになると、その問題はわずかの間に急速にむずかしいものになる。そのため、そろばんだけでは解けないような問題も生まれてきた。そろばんで解けるのは、だいたい現在の算数の範囲の問題に限られる。そうした範囲を扱った書物でもっとも水準の高いのは礒村吉徳(いそむらよしのり)の『算法闕疑抄(けつぎしょう)』(1661)である。この書物の100題の遺題は非常にむずかしく、そろばんではとうてい解けないように思われたが、礒村は名人で、後年これらの問題を算数の範囲で解いてみせている。しかし一般の人々にはこれは無理であった。多くの人たちはむずかしい問題を解く新しい武器を探し始めた。このとき人々の注意をひいたのが中国の『算学啓蒙(けいもう)』(1299)であり、この書物の終わりのほうに記載されている天元術なる方法であった。天元術は算木を使って問題を解く一種の用器代数である。多くの数学者がこの方法を理解しようと努力し、最初に橋本正数(生没年不詳)や沢口一之(かずゆき)(生没年不詳)ら大坂の研究グループがその方法を自己のものにした。この天元術を使って『算法闕疑抄』の遺題を解いたのが沢口一之の『古今算法記』(1671)である。
天元術は算木を並べて方程式を表すが、そこにはいろいろ制約があった。その制約の一つは未知数が一つに限られるという点であった。そのために方程式をたてること自体非常にむずかしかった。事実、『古今算法記』の15の遺題そのものが、すでに天元術では解くことが困難であった。この困難を打開したのが関孝和である。関孝和は方程式をたてる過程を紙の上に書くことを考えた。こうすれば未知数はいくつでもよく、多くの方程式から未知数を一つずつ減らして最後に方程式を一つにする。これは最初から未知数一つの方程式をつくるよりはずっと容易であった。この筆算の方法は、のちに点竄術(てんざんじゅつ)とよばれるようになる。関はこの方法により、『古今算法記』の遺題を解いた書『発微算法(はつびざんぽう)』(1674)を出版した。しかし、この書では一元高次方程式ができてからの計算を記し、連立方程式から一元高次方程式をつくるまでの過程を記さなかったため、当時、その正否について議論が生じた。そのため、後年になって弟子の建部賢弘(たけべかたひろ)が『発微算法演段諺解(げんかい)』(1685)で関の方法を説明した。それによって、筆算の方法が初めて世間に知られた。この点竄術は記号が違うだけで、内容は西洋の代数とまったく同じである。筆算の導入の利点は、単に方程式の立式を容易にしたにとどまらない。いままでそろばんや算木で扱えなかった種類の数学を扱えるようにした。そのため数学の範囲が非常に広くなった。和算での方程式論、行列式、順列・組合せから微積分学まで研究可能になったのは筆算のおかげであった。和算ということばを関孝和以後の数学に限定しようという主張があるのは以上のようなためである。
[大矢真一]
代数の系統、すなわち方程式、方程式論、行列式などの一群のほか、和算家がもっとも興味をもったのが円の研究である。円に関する問題は『塵劫記』の遺題のなかにみえ、多くの数学者はこれに関心をもった。関孝和より以前、村松茂清(?―1695)は『算俎(さんそ)』(1663)のなかで円周率を研究しているが、関孝和はこれを発展させ、そこに極限の考えを持ち込んだ。しかし関は村松と同じように、数値を用いて計算したため、次々の計算において最終結果を見通すことができず、円周率の公式を求めることができなかった。この方法を改良し、文字を用いて円周率を計算したのが建部賢弘である。文字を用いたため、次々の計算の結果が見通されるようになり、その法則が求められ、その結果、円周率が無限級数の和として求められることになった。これ以後の、円周、円弧、円積などの研究を「円理」とよぶ。円理は関孝和から始まるとされることも多いが、厳密な意味における円理は建部賢弘に始まるというのが定説である。建部の弟子に松永良弼(よしひろ)があり、円理の研究をいっそう推し進めた。松永の弟子に山路主住(やまじぬしずみ)があり、山路の弟子に安島直円(あじまなおのぶ)がいる。安島は円理をふたたび発展させ、西洋の定積分に等しいものにした。これをもう一度発展させたのが和田寧(やすし)で、彼は定積分表に相当する円理表をつくり、円理の計算をごく容易なものにした。
ところで、関孝和の弟子には、建部賢弘のほかに、荒木村英(1640―1718)がいた。学力は建部のほうが優れていたが、関の後継者は公的には荒木とされている。松永良弼は荒木と建部の2人の弟子であり、二つの系統は松永によって統一される。そして関一門の仕事は松永によって整理され、系統だてられることになった。松永の弟子山路主住は免許制度を確立し、制度のうえから、関の系統を整備した。関流という言い方がはっきりとできあがったのは、山路あたりからであろうとされている。
数学の研究発展が一段落すると、そこに整理の考えがおこるが、教育的にこれを学ばせる方法、すなわち教科書を著すという気運も生まれる。山路主住の弟子で九州久留米(くるめ)の藩主である有馬頼徸(よりゆき)は、家臣の名を用いて『拾璣(しゅうき)算法』(1769)を著した。これは優れた教科書であり、関流の点竄術はこの書によって一般の人に理解が可能になったといわれる。もともと和算の教科書は一種の問題集である。したがって詳しい説明は書かれておらず、やさしいものからむずかしいものへと並べられた問題を解いていくことによって原理を理解させるというのがその仕組みであり、よい教科書というのは、適当な問題が注意深く配列された書物ということになる。その点で『拾璣算法』はよくできており、後の人は競ってその問題を解き、何種類もの解説書がつくられた。同じ山路主住の弟子藤田貞資(さだすけ)には『精要算法』(1781)という教科書の著述がある。これも良書の名が高い。時を同じくして、同門の2人が同じような教科書を著したというのも、関流の数学が一段落したことを示すと同時に、数学学習者が増加したことを示すものといえよう。
以上のような系統確立の動きののち、ふたたび発展し始めるのは藤田貞資と同門の安島直円によってである。安島は独創的な学者で、藤田も彼を尊敬した。安島の弟子の日下(くさか)誠は教授に巧みであったと伝えられ、和田寧をはじめ有名な弟子も多い。和田に至って和算の発達はその極に達した。この時代になると、和算の普及度はいっそう高まる。これまで和算で名を知られた学者は、京都・大坂か江戸に住む人であったが、このころになると地方にも知名の学者が輩出するようになった。それらの人々は機会があれば江戸に出て教えを受けることもあったが、多くは自分の住む土地で勉強した。手紙で教えを受ける、すなわち通信教育も少なくなかった。送付されてくる数学書(おもに写本であった)を写し取り、それについて学習するという方法である。地方を遊歴する和算家もいた。一つの土地に行き、和算家を訪ね、自分より優れていればその人について学び、自分より劣っていればそこで教えるという武者修業に類するものであった。
和算の普及が広がると、直接に師につかず、書物によって研究するという者も増加してくる。こうなると、従来の教科書に不便を感じる人も出てくる。問題を一つ一つ自分で解くのではなく、書物に解いてあることを要求するようになる。ここに独習書の出現する基盤がある。こうしてつくられたのが松岡能一(1737―?)の『算学稽古(けいこ)大全』(1809)、会田安明(やすあき)の『算法天生法指南』(1810)、坂部広胖(こうはん)の『算法点竄指南録』(1815?)、長谷川寛(はせがわひろし)の『算法新書』(1830)などである。
[大矢真一]
このように和算人口が増加すると、趣味として学習する者も出てくる。それは和算の内容さえ変化させる。藤田貞資が「無用の無用」といって退けたような繁雑な問題を増加させた。これに拍車をかけたのが算額の流行である。算額、すなわち数学の絵馬は、自分が優れた問題を考案したときや難解な問題の解答を得たときなど、それを神仏に感謝する意味で、神社・仏閣にその問題や解答を描いた絵馬を掲げたのがその始めであった。やがてそれは難問を提出し、あるいはそれに答えるという、遺題と同じようなものになってくる。それはそれで和算の発達に相当役だったが、のちには、それは自分または自分の門流の名を売るための宣伝の意味が強くなってしまった。そして複雑な図形を描いた、いたずらに繁雑な問題を生み出すことになる。このように数学の本質から離れた点が、後世、和算が非難される原因ともなったのである。もっともこうしたことは二流、三流の学者のことで、和算の主流を担った学者たちは、明治維新に至るまで、つねに正しい本道を歩み、和算を進歩させてきた。明治になって和算が滅んだというのも、和算の本質にその原因があったというよりは、西洋の科学・技術を学ぶためには西洋の数学のほうが都合がよい、ということから出たことである。
[大矢真一]
『日本学士院編『明治前日本数学史』全5巻(1954~1960・岩波書店)』▽『大矢真一著『和算入門』(1987・日本評論社)』
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中国の数学書を手本に日本人が開発した数学。狭義では関孝和(たかかず)以降から明治初期までの数学をいう。掛算の「九九」は古代から貴族や知識人の常識となり,江戸時代以降は日本人の知的財産となっている。13~14世紀に中国で普及した算盤(そろばん)は日本式に改良され,16世紀末には広く普及した。1627年(寛永4)に出版された吉田光由(みつよし)の「塵劫(じんこう)記」は,江戸時代の教科書の手本となった。知的遊戯としての数学は年ごとに高度となり,関孝和は行列式および展開法,ベルヌイ数,補間法・補外法,不定方程式などの研究を残した。その後,建部賢弘(たけべかたひろ)による(arcsin x)2の級数展開など,世界に先駆けて発表された定理や理論は少なくない。日本人の多くが数学に親しんだことは,多くの数学者が各地で塾をもち,遊歴算家が各地で数学を指導したことでも知られる。大島喜侍(きじ)の大島流,三池市兵衛の三池流,百川治兵衛(ももかわじべえ)の百川流,宅間能清の宅間流,西川正休(せいきゅう)の西川流などの諸流派も成立した。維新後,明治政府は西洋文化を積極的に摂取したため,伝統的な和算は終わり,和算の土台のうえに西洋数学が築かれた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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(桂利行 東京大学大学院教授 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
…鍛冶炭,屋根板,竹,縄,綱などの資材や特殊技能者も秀吉朱印状で集められ,諸大名は定められた人数を率いて〈普請手伝番〉に加勢させられた。 これらの土木工事や検地丈量,川除(かわよけ)普請などには測量や算勘の技術が基礎にあり,江戸時代に入って〈和算〉として集大成された。また,キリシタン宣教師を介して医学,天文学,地理学,航海術,活字印刷術なども伝えられた。…
※「和算」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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