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和算 わさん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

和算
わさん

江戸時代に発達した日本独自の数学をいう。日本の数学は,奈良時代頃に中国から伝えられ,『九章算術』や『周髀算経』などの程度の高い算書も輸入された (「養老令」による) が,研究は伝わっていない。平安・鎌倉時代には継子立や目付字などの数学遊戯が数多くみられる。室町時代の末に,そろばんによる計算法が中国から輸入され,日常の数学を説明した日本最初の算書『算用記』 (1610頃) とこれを改訂した毛利重能の『割算書』 (22) が出版された。そのわずかあとに出版された吉田光由の『塵劫記』は,京枡の制度を取入れただけでなく,その頃中国で出版されたばかりの『算法統宗』を骨子としていたので,大いに歓迎され,数学が興る原因ともなった。その後,関西の橋本正数,田中由真,関東の関孝和らが出て,250年も前に中国で出版されて何人も注意を払わなかった『楊輝算法』と『算学啓蒙』とを初めて理解し,和算のもととした。関孝和の研究は円理 (微分積分学に相当する) には達しなかったが,弟子の建部賢弘がこれに到達した。その後,松永良弼山路主住,安島直円らが代々受継ぎ,関流を唱えた。安島の弟子に数学教育者としてすぐれた藤田貞資が出現したことによって,限られた人々の間で行われていた和算を全国的に普及するようになった。和算が高度の発達をとげ広く普及した原因は,『塵劫記』のような通俗算書の出版が盛んであったこと,遺題継承,算額の習慣などがあったことである。文化文政 (1804~30) 頃には幾何学の研究が極度に進み,ついには芸術的色彩を帯びるにいたり,「術に遊ぶ」と批判されるようになった。元来,和算には,関数概念もなく,座標も取扱われず,角の概念も欠けていた。和算家も理論の組織力に欠け,問題のための問題を解く楽しみを求めることに傾いた。日本文字による当然の結果として数学の研究にはきわめて不便であった。日本人の直観力がそれを補って余りあったゆえ,成果をみたのである。明治になって西洋の科学を研究するために和算もまた西洋数学への転換を余儀なくされた。和算家のなかにすぐれた数学教師となる者も現れ,ある者は西洋数学の吸収に努めた。そして明治 30年代には,世界一流に伍していくまでになった。

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知恵蔵の解説

和算

西洋数学の影響を受ける明治維新以前に、日本で独自に発達した数学。17世紀、行列式の発見や円周率の計算など、数多くの業績により算聖と称された関孝和(1642?〜1708年)は有名。研究成果の適当な発表手段がなかったため、算額として奉納された和算家の成果が全国各地の寺社に残されている。

(桂利行 東京大学大学院教授 / 2007年)

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

和算

日本古来の数学。江戸時代に関孝和らが究めた。方程式、円周率、曲線図形の面積や曲面立体の体積を求めるのに独自の発達をした。上毛かるたに「和算の大家関孝和(こうわ)」とある。

(2006-02-18 朝日新聞 朝刊 群馬全県 2地方)

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百科事典マイペディアの解説

和算【わさん】

西洋数学の影響を受ける前,特に江戸時代に発達した日本独自の数学。江戸時代の初め,中国の《算学啓蒙》《算法統宗》等の影響を受け毛利重能の《割算書》,吉田光由の《塵劫(じんこう)記》等の計算書が普及。
→関連項目算額

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世界大百科事典 第2版の解説

わさん【和算】

明治以前の日本人が研究した数学。研究者により,その初めを,(1)上古,(2)1627年(寛永4)刊の吉田光由著《塵劫記(じんごうき)》,(3)74年刊の関孝和著《発微算法(はつびさんぽう)》とする3通りがある。
[奈良・平安時代
 養老令(718)によれば,官吏養成のための学校である大学寮を設置し,現在の中学生くらいの少年がここで勉強した。この課程の中に数学があり,定員は算博士2人,算生30人であった。

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大辞林 第三版の解説

わさん【和算】

日本古来の数学。特に江戸時代、関孝和の流れをくむ関流の数学が画期的な発展を示し、方程式論・行列式などを含む点竄術てんざんじゆつや、円周率・定積分などを扱う円理など、非常に高い水準をみせたが、明治以降、西洋数学が取り入れられるに及んで衰退。 〔明治期以降の呼称〕 → 洋算

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

和算
わさん

江戸時代、日本で独自に発達した数学。江戸時代初期からのわが国の数学をすべて和算という場合もあり、日本独自の発達を始めた関孝和(たかかず)以後の数学をいう場合もある。和算ということばは洋算に対するものである。明治維新前後、西洋の数学が移入されたとき、これを洋算とよび、これに対して日本古来の数学を和算と称したもので、歴史的には新しい名称である。江戸時代には和算ということばはない。なお、明治時代の和算家は和算を「わさん」とよんでおり、「わざん」という呼び方はごく最近のことである。
 歴史的にみると、日本の数学は3回にわたって外国の影響を受けている。第1回は奈良時代の少し前、第2回は江戸時代の以前、室町末期で、いずれも中国から数学が移入された。第3回は明治維新の少し前で、これは、西洋から数学が移入された。3回とも、それらの数学の移入が、それに続く時代の文化の発展に大きく寄与したという点では共通している。[大矢真一]

算木と九九の渡来

最初の数学の移入の特徴は、計算器具としての算木(さんぎ)と掛け算のための九九の渡来である。九九は非常に歓迎され、広く一般に普及した。その痕跡(こんせき)は『万葉集』にもみえている。すなわち、そこでは「八十一」と書いて「くく」と読ませ、「十六」と書いて「しし」、あるいは逆に「二五」と書いて「とお」と読ませるなどの例がいくつか存在する。九九はその後も忘れられることはなかった。数学のまったく衰えてしまった平安時代から鎌倉時代・室町時代にかけても『口遊(くちずさみ)』『拾芥抄(しゅうがいしょう)』などには九九の表がみえている。
 奈良時代には大学で数学が学習された。教えるのは算博士(はかせ)であり、学習者は算生とよばれた。そこで用いられた教科書は中国唐代のものに類似するが、それとは多少の相違がある。これは朝鮮の学制によったためであろうといわれる。その水準は相当に高く、『九章算術』そのほかの高度な数学が学習された。しかし、平安時代のなかば過ぎになると、算博士は世襲となり、学力も低下し、単に名のみのものとなってしまった。鎌倉時代から室町時代にかけては、数学はまったく衰えて、簡単な計算と数学遊戯が行われるだけになった。[大矢真一]

そろばんの渡来

室町時代も末になると、商工業が盛んになり、数学の必要性も増してきた。この時期に中国から2回目の数学の伝来があった。第2回に伝来した数学の特徴は計算器具としてのそろばんと、そろばんによる割り算に用いられる「割り声」(割り算九九)とであった。これらは当時、中国に往来した貿易船によって持ち帰られたものらしい。そのほか2、3のそろばん用の数学書も持ち帰られた。
 江戸時代の直前のころには計算の必要性が非常に強まった。そのため京都・大坂地方ではそろばん塾のようなものが生まれた。そこではそろばんによる計算とそれを用いる簡単な問題とが教えられた。そこで取り扱われた問題は、主としてそのころまで存在していた日本在来の数学である。
 以上のような、そろばんによる計算法と、日本在来の数学を掲載したものに毛利重能(しげよし)の『割算書』(1622)がある。同じころの数学書もいくつか残っているが、その内容は大同小異である。続いて出版された数学書は吉田光由(みつよし)の『塵劫記(じんごうき)』(1627)である。この書は、中国から伝えられた体系的なそろばん用数学書『算法統宗』(1593)を手本にしたものであり、『割算書』に比べてはるかに系統的で、分量もずっと多かった。そろばんを使うという点では共通であったが、『割算書』は古い数学を締めくくったもの、『塵劫記』は新しい数学を始めたものといえるであろう。
 この『塵劫記』は、そろばんの計算法(図解入り)、日用諸算、大きな数の計算、数学遊戯などを含んでおり、非常な好評を博してしばしば版を重ねた。著者の光由は改版のたびにその内容を新しくした。『塵劫記』初版出版から10年余りたったころ、今村知商(ちしょう)の『竪亥録(じゅがいろく)』(1639)が出版された。これは『塵劫記』が日用諸算を中心としたのに対し、純粋に数学的な材料だけを掲載した水準の高い書物であった。当時、そうした書物が求められるほど数学研究者の数が増えていたのである。これに刺激されたのであろう、それから2年後、吉田光由はまったく新しい『塵劫記』の新版(1641)を出版した。この書物は大きな数を多数含んでいるが、もっとも特徴的なことは、巻末に解答をつけない問題を12題載せ、研究者たちに対して、この問題に答えよと挑戦していることである。このような問題を「好み」あるいは「遺題」という。この遺題を研究した人々は、その解答を自己の著書に載せ、同時にまた自分のつくった遺題をその著書につけた。この遺題継承によって和算は急速な進歩を示した。[大矢真一]

天元術と点竄術

遺題継承で次々と新しい問題が生まれるようになると、その問題はわずかの間に急速にむずかしいものになる。そのため、そろばんだけでは解けないような問題も生まれてきた。そろばんで解けるのは、だいたい現在の算数の範囲の問題に限られる。そうした範囲を扱った書物でもっとも水準の高いのは礒村吉徳(いそむらよしのり)の『算法闕疑(けつぎ)抄』(1661)である。この書物の100題の遺題は非常にむずかしく、そろばんではとうてい解けないように思われたが、礒村は名人で、後年これらの問題を算数の範囲で解いてみせている。しかし一般の人々にはこれは無理であった。多くの人たちはむずかしい問題を解く新しい武器を探し始めた。このとき人々の注意をひいたのが中国の『算学啓蒙(けいもう)』(1299)であり、この書物の終わりのほうに記載されている天元術なる方法であった。天元術は算木を使って問題を解く一種の用器代数である。多くの数学者がこの方法を理解しようと努力し、最初に橋本正数(生没年不詳)や沢口一之(かずゆき)(生没年不詳)ら大坂の研究グループがその方法を自己のものにした。この天元術を使って『算法闕疑抄』の遺題を解いたのが沢口一之の『古今算法記』(1671)である。
 天元術は算木を並べて方程式を表すが、そこにはいろいろ制約があった。その制約の一つは未知数が一つに限られるという点であった。そのために方程式をたてること自体非常にむずかしかった。事実、『古今算法記』の15の遺題そのものが、すでに天元術では解くことが困難であった。この困難を打開したのが関孝和である。関孝和は方程式をたてる過程を紙の上に書くことを考えた。こうすれば未知数はいくつでもよく、多くの方程式から未知数を一つずつ減らして最後に方程式を一つにする。これは最初から未知数一つの方程式をつくるよりはずっと容易であった。この筆算の方法は、のちに点竄(てんざん)術とよばれるようになる。関はこの方法により、『古今算法記』の遺題を解いた書『発微算法(はつびざんぽう)』(1674)を出版した。しかし、この書では一元高次方程式ができてからの計算を記し、連立方程式から一元高次方程式をつくるまでの過程を記さなかったため、当時、その正否について議論が生じた。そのため、後年になって弟子の建部賢弘(たけべかたひろ)が『発微算法演段諺解(げんかい)』(1685)で関の方法を説明した。それによって、筆算の方法が初めて世間に知られた。この点竄術は記号が違うだけで、内容は西洋の代数とまったく同じである。筆算の導入の利点は、単に方程式の立式を容易にしたにとどまらない。いままでそろばんや算木で扱えなかった種類の数学を扱えるようにした。そのため数学の範囲が非常に広くなった。和算での方程式論、行列式、順列・組合せから微積分学まで研究可能になったのは筆算のおかげであった。和算ということばを関孝和以後の数学に限定しようという主張があるのは以上のようなためである。[大矢真一]

円理の研究

代数の系統、すなわち方程式、方程式論、行列式などの一群のほか、和算家がもっとも興味をもったのが円の研究である。円に関する問題は『塵劫記』の遺題のなかにみえ、多くの数学者はこれに関心をもった。関孝和より以前、村松茂清(?―1695)は『算俎(さんそ)』(1663)のなかで円周率を研究しているが、関孝和はこれを発展させ、そこに極限の考えを持ち込んだ。しかし関は村松と同じように、数値を用いて計算したため、次々の計算において最終結果を見通すことができず、円周率の公式を求めることができなかった。この方法を改良し、文字を用いて円周率を計算したのが建部賢弘である。文字を用いたため、次々の計算の結果が見通されるようになり、その法則が求められ、その結果、円周率が無限級数の和として求められることになった。これ以後の、円周、円弧、円積などの研究を「円理」とよぶ。円理は関孝和から始まるとされることも多いが、厳密な意味における円理は建部賢弘に始まるというのが定説である。建部の弟子に松永良弼(よしひろ)があり、円理の研究をいっそう推し進めた。松永の弟子に山路主住(やまじぬしずみ)があり、山路の弟子に安島直円(あじまなおのぶ)がいる。安島は円理をふたたび発展させ、西洋の定積分に等しいものにした。これをもう一度発展させたのが和田寧(やすし)で、彼は定積分表に相当する円理表をつくり、円理の計算をごく容易なものにした。
 ところで、関孝和の弟子には、建部賢弘のほかに、荒木村英(1640―1718)がいた。学力は建部のほうが優れていたが、関の後継者は公的には荒木とされている。松永良弼は荒木と建部の2人の弟子であり、二つの系統は松永によって統一される。そして関一門の仕事は松永によって整理され、系統だてられることになった。松永の弟子山路主住は免許制度を確立し、制度のうえから、関の系統を整備した。関流という言い方がはっきりとできあがったのは、山路あたりからであろうとされている。
 数学の研究発展が一段落すると、そこに整理の考えがおこるが、教育的にこれを学ばせる方法、すなわち教科書を著すという気運も生まれる。山路主住の弟子で九州久留米(くるめ)の藩主である有馬頼(よりゆき)は、家臣の名を用いて『拾(しゅうき)算法』(1769)を著した。これは優れた教科書であり、関流の点竄術はこの書によって一般の人に理解が可能になったといわれる。もともと和算の教科書は一種の問題集である。したがって詳しい説明は書かれておらず、やさしいものからむずかしいものへと並べられた問題を解いていくことによって原理を理解させるというのがその仕組みであり、よい教科書というのは、適当な問題が注意深く配列された書物ということになる。その点で『拾算法』はよくできており、後の人は競ってその問題を解き、何種類もの解説書がつくられた。同じ山路主住の弟子藤田貞資(さだすけ)には『精要算法』(1781)という教科書の著述がある。これも良書の名が高い。時を同じくして、同門の2人が同じような教科書を著したというのも、関流の数学が一段落したことを示すと同時に、数学学習者が増加したことを示すものといえよう。
 以上のような系統確立の動きののち、ふたたび発展し始めるのは藤田貞資と同門の安島直円によってである。安島は独創的な学者で、藤田も彼を尊敬した。安島の弟子の日下(くさか)誠は教授に巧みであったと伝えられ、和田寧をはじめ有名な弟子も多い。和田に至って和算の発達はその極に達した。この時代になると、和算の普及度はいっそう高まる。これまで和算で名を知られた学者は、京都・大坂か江戸に住む人であったが、このころになると地方にも知名の学者が輩出するようになった。それらの人々は機会があれば江戸に出て教えを受けることもあったが、多くは自分の住む土地で勉強した。手紙で教えを受ける、すなわち通信教育も少なくなかった。送付されてくる数学書(おもに写本であった)を写し取り、それについて学習するという方法である。地方を遊歴する和算家もいた。一つの土地に行き、和算家を訪ね、自分より優れていればその人について学び、自分より劣っていればそこで教えるという武者修業に類するものであった。
 和算の普及が広がると、直接に師につかず、書物によって研究するという者も増加してくる。こうなると、従来の教科書に不便を感じる人も出てくる。問題を一つ一つ自分で解くのではなく、書物に解いてあることを要求するようになる。ここに独習書の出現する基盤がある。こうしてつくられたのが松岡能一(1737―?)の『算学稽古(けいこ)大全』(1809)、会田安明(やすあき)の『算法天生法指南』(1810)、坂部広胖(ひろなお)(1795―1824)の『算法点竄指南録』(1815?)、長谷川寛(はせがわひろし)の『算法新書』(1830)などである。[大矢真一]

算額の流行

このように和算人口が増加すると、趣味として学習する者も出てくる。それは和算の内容さえ変化させる。藤田貞資が「無用の無用」といって退けたような繁雑な問題を増加させた。これに拍車をかけたのが算額の流行である。算額、すなわち数学の絵馬は、自分が優れた問題を考案したときや難解な問題の解答を得たときなど、それを神仏に感謝する意味で、神社・仏閣にその問題や解答を描いた絵馬を掲げたのがその始めであった。やがてそれは難問を提出し、あるいはそれに答えるという、遺題と同じようなものになってくる。それはそれで和算の発達に相当役だったが、のちには、それは自分または自分の門流の名を売るための宣伝の意味が強くなってしまった。そして複雑な図形を描いた、いたずらに繁雑な問題を生み出すことになる。このように数学の本質から離れた点が、後世、和算が非難される原因ともなったのである。もっともこうしたことは二流、三流の学者のことで、和算の主流を担った学者たちは、明治維新に至るまで、つねに正しい本道を歩み、和算を進歩させてきた。明治になって和算が滅んだというのも、和算の本質にその原因があったというよりは、西洋の科学・技術を学ぶためには西洋の数学のほうが都合がよい、ということから出たことである。[大矢真一]
『日本学士院編『明治前日本数学史』全5巻(1954~1960・岩波書店) ▽大矢真一著『和算入門』(1987・日本評論社)』

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世界大百科事典内の和算の言及

【安土桃山時代】より

…鍛冶炭,屋根板,竹,縄,綱などの資材や特殊技能者も秀吉朱印状で集められ,諸大名は定められた人数を率いて〈普請手伝番〉に加勢させられた。 これらの土木工事や検地丈量,川除(かわよけ)普請などには測量や算勘の技術が基礎にあり,江戸時代に入って〈和算〉として集大成された。また,キリシタン宣教師を介して医学,天文学,地理学,航海術,活字印刷術なども伝えられた。…

※「和算」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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