農業にかかわる科学の総称。日本の大学農学部などでは広く,農芸化学(土壌学,肥料学を除く),林学,水産学,獣医学までを含む場合があるが,ここでは前者の立場で論じる。
人類が一定の土地に定着し,農業を開始(1万~2万年前)して長年月を経ると,いかなる作物をいかに栽培し,家畜などをいかに飼養したらよいかという知見が集積してくる。とくに農業が民族や国の基本的基盤となると,王侯など統率者側,またときには耕作者自体も,積極的に農産物の収量をあげ,利益を得ようという努力がはらわれる。その努力から獲得された経験的知見の総合的・統一的理解が,農学の起りであり,記録されたものが農書,農学書の源である。ギリシアさらにローマ時代の農書としては,テオフラストスの《植物誌》があり,ローマ地方の乾燥気候に対応した休閑保水という二圃(にほ)式農法を記載内容としているという。しかし,それよりいっそう古い黄河,インダス,メソポタミア,エジプトの諸文明を支えた農業に関する諸知見をまとめたものは残っていない。
ギリシア・ローマ時代の二圃式農法は,ローマの支配によって中・北欧に普及したが,湿潤であったため,休閑の意義は保水から除草へと変化し,13世紀以降,三圃式農法(三圃制)の成立をみるに至った。一方,当時,ヨーロッパで最先進農業国とされたオランダなどの低湿地国では,干拓・排水,深耕・多肥の集約農法,深耕用の犂(すき)などの知見は進んでいたが,この場合もそれらを農書としてまとめたものはない。農書,農学書ともいうべきものは,オランダなどの影響を受けた18世紀以降のイギリスにおいて出現したといってよい。タルJ.Tull(1674-1740)は条播(じようはん)・中耕・除草,作物の栄養・生理,土壌改良などや農法について観察,考察したが,当時より,休閑三圃農法(コムギ,オオムギ,休閑)から改良三圃農法(コムギ,オオムギ,クローバー)へ,さらに四圃式輪栽農法(コムギ,飼料カブ,オオムギ,クローバー)として,地力増進のみならず,労働力の節約をもたらした著名なノーフォーク式農法への動きがあった。このような当時のイギリス資本主義農業の動きを理論づけ,ノーフォーク式農法を積極的に推奨したのは,タルにつぐA.ヤング(1741-1820)であった。
やや遅れて,先進地イギリスのノーフォーク式農法をとりいれたドイツでは,A.D.テーア(1752-1828)が,《合理的農業の原理》を著し,〈農業を対象とする学問分野は,生産技術と経営の2分野があるが,終局的には多収をあげて最大利潤を得ることを目的とする〉と述べた。テーアは近代農学の祖といわれ,第2次大戦後もしばらくは日本の農業経営学に影響を及ぼしていた。テーアと同時にA.スミスの弟子J.H.vonチューネン(1783-1850)は,みずから農場を管理し,経営・経済的検討を行い,《孤立国》を著して〈農業集約度学説〉,また今日日本では否定的にみられている〈収穫逓減の法則〉を唱えた。ついで実証的・実験的農学ともいわれる分野を展開したのはJ.vonリービヒ(1803-73)であった。彼の《農業および生理学への化学の応用》は今日なお名著であり,物質の循環に対する考え方を提起し,テーアの〈腐植質説〉に対して〈無機栄養説〉を主張し,〈最少養分律〉を唱え,農芸化学を創始した。ドイツでは,その後クルチモウスキーR.Krzymowskiらが,農学は体系的農学,農業史,農業地理学の3分野を統合したもので,体系的農学は農業生産学(植産学,畜産学,農産加工学),農業経済学から構成されるとして,再び経営面に力をそそいだ農学の重要性を説いた。
フランスにも農学研究者ともいうべき学者が,19世紀には現れていた。例えば,ブサンゴーJ.B.J.D.Boussingault(1802-87)は植物の光合成の研究を行ったが,同時に,リービヒと同様,テーアの〈腐植質説〉を否定し,マメ科植物の窒素固定に関する研究も行った。生物の〈自然発生説〉を否定したL.パスツール(1822-95)は,家蚕の病気研究で優れた業績を上げ,さらに《昆虫記》の著者J.H.ファーブル(1823-1915)は生きた自然をそのまま把握,研究することの重要性を説いた。
ヨーロッパの国々を通して,農学上,見落とせない一つの流れがある。植物の光合成に関する研究である。イギリス人牧師J.プリーストリー(1733-1804)は,1770年代に植物は〈空気を純化する〉(O2発生)とし,オランダ人でオーストリア宮廷医師J.インゲンホウス(1730-99)は植物のO2発生は緑色の葉,茎だけが行うことを明らかにした。スイス人牧師スヌビエJ.Senebier(1724-1809)はO2が発生するにはCO2の存在が必要であるとし,スイス人ソシュールN.T.de Saussure(1767-1845)は植物の緑色部分に光を照射すると,CO2とH2Oから有機物が合成されることを証明した。それよりしばらく後の,ドイツ人植物生理学者さらに農学者ともいうにふさわしいザックスJ.von Sachs(1832-97)は,光合成を含めて,広く植物の全般にわたる生理学研究を行い,それを取りまとめた植物・作物生理学の祖述者となった。光合成の研究に対して遺伝・育種分野で見落とすことのできない研究成果は,イギリス人C.ダーウィン(1809-82)の諸業績,とくに《種の起原》《飼養動植物の変異》やオーストリア人G.J.メンデル(1822-84)のエンドウを材料とした〈植物雑種の研究〉である。
旧ソ連における現代農学創出にあたってまずあげるべきは,ダーウィンとならび称され,とくに植物生理の分野で業績をあげたK.A.チミリャーゼフ(1843-1920)である。また日本では植物水分生理学を開拓した基礎的・理論的学者として知られるマクシーモフN.A.Maksimov(1880-1952)や,日本では生化学者で生命の起源の研究創始者として知られるA.I.オパーリン(1894-1980)も農学者,農芸化学者である。土壌肥沃度,単一土壌形成,牧草輪作体系などを中心として研究を展開したV.R.ウィリヤムス(1863-1939)も土壌学者であり農学者であった。また果樹の品種改良を中心に,独自の方法を開発した園芸育種家I.V.ミチューリン(1855-1935)の存在も見落とせず,さらに栽培植物の起源を問い,世界各地から栽培種,野生種を収集した遺伝学者N.I.バビロフ(1887-1943)は,旧ソ連が現在保有する豊富な遺伝資源の礎を築いている。ただ若き日には優れた〈植物生育発展段階説〉を提唱したT.D.ルイセンコ(1898-1976)が,一方でメンデリズムを否定し,さらに農学研究を忘却して政治的に動いたのは残念であった。ソ連での農学は,日本や発展途上国にみられるような植物学,動物学は基礎理論分野で,農学は応用分野という区別はなく,農学即基礎学である。
この点は優れた農業国アメリカ合衆国の場合も同様である。イギリスよりメーフラワー号で北アメリカの地へ上陸(1620),独立(1783),それに伴うフロンティア・ラインの西漸,といった開拓史の理解なくして合衆国の農学は記すことができない。植物の水分問題,作物の育種分野,雑草研究,諸家畜の飼養,広く生態学的研究,トウモロコシの収穫機を契機とする1900年初頭に始まる農業の機械化,14年に制度化される農業普及問題など,広範囲にわたる農学研究が行われた。しかも,きわめて高い実用・応用面に対応して,底の広い基礎面,一見無縁とみられる理論面を農学の範囲としている。にもかかわらず,ドイツ農学に見られた哲学的・統一的反省を行うという態度はない。
執筆者:川田 信一郎
中国における農学は,戦国時代の前4世紀ころに勃興してくる。当時,諸子百家の中に農家と呼ばれる集団がいて,とりわけ顕著な動きを示していたのは,神農を農業神としてあがめる南方の楚出身の許行一派と,周の始祖后稷(こうしよく)を農業神としてあがめる中原の農家集団とであった。前者は商業利潤を抑制して物価を安定させ,支配者たる者も農業生産に従事すべきであるという〈君民並耕説〉を唱え,為政者から顰蹙(ひんしゆく)を買った。一方,後者は農業における季節性(天時),地域性(土宜),および為政者の徳治が一体となった農本思想を説いたので,富国強兵につとめる時の君主によって採用されるところとなった。当時の農学の具体的内容については,《呂氏(りよし)春秋》や《管子》にいくらか見られるが,その土壌改良,施肥,栽培の技術はさして水準が高くなく,主眼はもっぱら農民の確保と生産の充実に向けられていた。
秦・漢時代の農学の特色は,本来は農民たちの自然暦の目安となっていた物候知識が,政治的色あいを帯びて〈月令(がつりよう)〉という一種の農事暦に仕立て上げられたことと,趙過(ちようか)(前2世紀)および氾勝之(はんしようし)(前1世紀)などの勧農官によって精耕細作が奨励されたことである(《氾勝之書》)。ことに氾勝之の農学は,五行思想の影響を受けて迷信じみた一面もあるが,12種の作物について種子の選別,播種(はしゆ),栽培,施肥,収穫から種子の保存にいたるまで細かに技術指導し,関中地方(陝西省)に単位面積当り高収穫を求める区田法(くでんほう)を広める努力をしている。この区田法は今日にいたるまで陝西や山東の一部の地域で行われている。南北朝時代の農学では,北魏の地方長官賈思勰(かしきよう)が,当時,華北で完成していた乾地農法を体系的に記録したことが特筆に値する。彼の農学はその著書《斉民要術》(6世紀初め)に集大成されており,その記述態度は老農の経験や農諺(のうげん)を採録し,みずからも実験してみるといった実際主義に基づいていた。また畜牧,染織,醸造,食品加工,家政方面のことにいたるまで細大もらさず記録し,後世の農学者たちに大きな影響を及ぼした。
唐・宋時代に入ると,江南の開発がすすんで水稲作が広まり,耐旱(たいかん),早熟種の占城稲が導入されるとともに,実に多くの稲の品種改良がなされるようになった。また,果樹栽培の面においても接木や移植の技術が向上し,天時や土宜にのみ依存する農業から,人為的に自然環境を改良していく農業へと思考転換がなされていった。12世紀の陳旉(ちんふ)の土壌改良理論などはそのよい例であろう。
元時代は中国の農学が最も盛んになった時期でもある。その一つの理由として考えられるのは,異民族のモンゴル族が漢民族の広大な農耕地帯を効率よく支配するために,全国に通用する農業指導案を必要としたからであろう。この時代には王禎(おうてい)や魯明善(ろめいぜん)といったすぐれた農学者が輩出し,ことに王禎は江南の造成農地である囲田あるいは圩田(うでん)で使用されている水利灌漑用具に着目し,水車や翻車(竜骨車)などを改良し,農具論および農業土木方面で新生面を開いた。
次の明・清時代の農学には,大別して二つの傾向が見られる。一つはイエズス会士を通して学んだ西学の視点から,中国の在来の農法を自然科学的に説明しようとするもので,これは《農政全書》(1639)の著者徐光啓の思想に顕著に見られる。もう一つは,耕種技術のみを問題としないで,農家の経営方法の改善を目指そうとするもので,明末の湖州(浙江省)の地主沈氏(しんし)や清初の地主張履祥の営農方針に顕著である。従来の上からの勧農方針では,このころの集約化が進んだ農業を指導しきれず,地主みずからによる農家経営論が台頭してきたのである。農業の協業化,機械化が進んできた今日の中国においても,この農家経営論は,人々の大きな関心事となっている。
執筆者:渡部 武
日本の農学研究,農書,農学書の刊行をみると,為政者側,耕作者側を問わず広範なものであった。《農業全書》(宮崎安貞,1697),《会津農書》(佐瀬与次右衛門,1684),《耕稼春秋》(土屋又三郎,1707),《農家益》(大蔵永常,1802),《草木六部耕種法》(佐藤信淵,1829)などをはじめとする各地方の見聞,観察に基づく農書が明治以前に刊行されている。それら,農業に関する諸知見の底にほとんど共通して流れるものは,儒教,朱子学,天地自然摂理の考え方,陰陽五行説などの思想である。明治期に入ると農学分野は,古来の日本農法・農学に基づく〈本邦農学〉と,当時の政府により積極的に欧米から輸入された〈泰西農学〉が対立,混然としたが,直輸入された欧米農法,作物,農学は日本の実情に適さないものも多く,そのまま立ち消えになったものや,なんら業績を残さなかった外人教師(とくにイギリス人)も少なくなかった。
一方,当時の〈泰西農法〉に対した〈在来農法=本邦農法〉の種々な点に着眼,思考して活躍した人々に,石川理紀之助,水田排水の冨田甚平,短床犂(たんしようり)の大津末次郎,〈太一車〉の中井太一郎,明治三老農(老農)といわれた船津伝次平,中村直三,奈良専二,林遠里(奈良の没後,林が加わった)らがいた。それらの人々の明治期農学への貢献は見落とせないが同時に招聘(しようへい)外人の中にも著しい影響を与えた人もいた。リービヒの流れをくむドイツ人O.ケルナーや,リービヒとテーアの弟子M.フェスカ,ロイブO.Loew,アメリカ人ダンE.Dunらで,在来農法・農学が直観的,経験的であったのに対して,実証的・実験的精神を注入したといってよい。ケルナーは土壌・肥料,植物栄養,家畜飼養,農産製造,蚕体生理の諸研究面において,フェスカは《日本地産論》などを著す過程において,ダンは畜種改良,牧草導入,輪作,草地改良,大型機械利用の各面において,大きな影響を与えた。
それら本邦農学,泰西農学を受けて,〈明治農学〉ともいうべき新分野を展開したのが,横井時敬,酒勾常明,古在由直らの農学者であった。横井は初期には農学の実験的分野に関心を示したが,後に経営,経済に力を入れ,《塩水選種法》《稲作改良法》などの著書があり,酒勾には《改良日本稲作法》があり,ケルナーの弟子古在は,日本における農芸化学の祖ともいうべき農学者であり,公害研究の先駆者でもあった。養蚕では外山亀太郎が,メンデルとは独立にカイコにおける遺伝の法則や雑種強勢を見いだした。それと同時にそのころ,日本各地に諸作物の栽培,養蚕にかかわる優れた多くの農書(池田伴親《園芸果樹論》,福羽逸人《蔬菜栽培法》など)も著されている。
日本におけるイネの品種を問題とするとき,明治期の著名品種で,今日でもその血の流れている〈亀の尾〉〈愛国〉〈神力〉〈旭〉〈銀坊主〉などは,すべて当時の耕作農民の手によって水田から見いだされた品種である。一方,国立農事試験場を中心に,明治中・末期より主として水稲を中心としての育種研究,育種事業が安藤広太郎,加藤茂苞などの手によって開始される。大正期には顕著な発展分野はなかったが,近藤万太郎による種子学研究は特記すべきものであろう。昭和初期における農業恐慌,水稲冷害(1931,34,35)は,日本の農学,とくに稲作などをめぐる実験的諸研究の発展の第1の契機となった。篤農荻原豊次の保温折衷苗代の創出は,水稲苗研究の端緒になり,塩入松三郎の水田脱窒現象の発見と全層施肥法の考案は,現代の水田土壌化学への出発点となり,寺尾博らの水稲の冷温による被害の研究は,今日の水稲生理・生態実験の嚆矢(こうし)ともいうべきものとなった。浅見与七が果樹研究へ実験的手法を取り入れたことも見落とせない。
日本の農学発展の第2の契機は,第2次世界大戦中から終戦後10年近い期間における食糧不足であった。水稲作の研究はもちろん,麦類作やカンショ,バレイショ作の研究,リンゴ,ミカンなど果樹作,とくに土壌管理面の研究,野菜作をめぐる諸研究,雑草研究への注目,工学的研究分野の発達などと同時に,技術の農村浸透のための普及関係の研究,事業の発展が行われたことも注目される。終戦後の開拓をめぐっても農学各分野における研究が進んだこと,また駐留したアメリカ合衆国の助言が各分野にあり,とくにそれまで日本では問題としなかった土壌浸食研究へ注意の目を向かわせたことなど,忘れられないことである。
第3の農学展開の契機は,食糧も充足し,壊滅に等しかった工業も復興した昭和30年代初頭といってよい。日本農業の転換期である。所得倍増という掛け声の下の工業発展への出発に並行した1962年以降の農業基本法農政,農業構造改善事業の開始は,各種作物,とくに食用作物の増産研究の影をひそめさせ,農業における労働力節約をめざす農業の機械化・装置化・施設化研究や,化学肥料中心の作物栽培,病害虫・雑草の化学防除など化学化への諸研究を盛んにした。果樹・花卉(かき)研究への関心も高まったが,畜産研究への展開も華々しくなった。農学というより農業科学ともいうべき様相を呈するに至った。一方,水田・畑の耕地土壌研究,水稲をはじめとする食用諸作物の増産研究,家蚕研究は衰微の一途をたどり始めた。ついに1970年には米の生産調整が始まって〈国際分業論〉の出現をみた。食糧自給率の低下,専業農家の激減と兼業農家の激増,農業生産の将来の担当者となるべき後継者の減少は,まさに〈日本の農業はどこへいく〉であり,〈田園まさに荒れなんとす〉であった。
そういう中に起こってきたことが,世界的な異常気象による穀物の大減収,価格の暴騰であり,オイル・ショック(1973)であった。国内における食糧自給論,国内農業再認識論,省エネルギー農業論が台頭するとともに,過去10年余忘却されていた耕地とくに水田地力への関心が高まり始めた。一方,これまでの農業生産体制の大きな変革に対して,無機質肥料,農薬を排除していこうとする,いわゆる有機農法の台頭がみられ,かつて農産製造といわれた分野は微生物化学,生理活性物質研究,生命科学,バイオテクノロジーへと発展し,さらに〈医農同源論〉の出現をみるに至った。かつての農学の各分野は種々の方面に発達するとともに,学際分野の研究も興った。分化しすぎた農学の,新たな日本農業の展望に立った再編成の時期が現段階(1985)である。
農学は,〈土を耕す〉ということから離れた学問ではなく,根源的には穀物作,大豆作,露地野菜作を研究する,日本人の生存にかかわる学問であり,土壌学,作物学(食用,飼料,工芸),園芸学(野菜,花卉,果樹),作物育種学,栽培学,肥料・栄養学,作物保護学(病理,害虫獣,雑草),気象学,農業工学,応用昆虫学,養蚕学,畜産学などはその自然科学的側面であり,農業経営学,農政学,農業史,農業地理学などは社会科学的側面である。しかも,農学は応用科学とかつて日本でいわれたが,実学的面をもちつつも,基礎学,理論学であり,それゆえにこそ,現実の農業発展の支えとなり,開発をもたらすのである。換言すれば,農学とは,その国の農業に対応し,それをいかに客観的に認識し,いかに農業を発展させていくかという意図の下に統一され総合された科学であり,その科学の形成には,その国の農業にかかわる現代諸科学分野を内包するばかりでなく,一見農業にかかわりないと思われる物理学,化学,分子生物学,電子工学,情報科学などの諸分野の研究段階も反映されているといってよい。しかも,個別的・現実的・実用的問題に出発しながらも,基礎的,理論的に発展し,逆に得られた基礎知見・理論が現実の農業の真の発展に有用となる性格をもっているのである。そこに現代農学の性格と使命があり,実学的・応用的面のみ短絡的に強調される点は注意しなければならない。
→農業 →農具 →農書
執筆者:川田 信一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
農業の永続的発展を実現するための科学・技術の統一的体系をいう。農学の研究対象である農業は、人間の生命保全と生活充足に不可欠の食料その他の生存必需品の生産をおもな目的とし、さらに人間の生き方、つまり人生の充実を図ろうとする合目的的活動である。それゆえ農学は、農業に関する単なる認識の学ではなくて、農業の発展を図ることによって人間の「生」を実現しようとする実践の学である。つまり、農学は人間的「生」の実現を目的として追究する学問である。
そのため農学は、自然科学と人文・社会科学の領域にまたがる学際的、複合的性格をもつ応用科学として構成される。すなわち農学は、生物学・化学・物理学・経済学などを基礎として形成された作物学・園芸学・畜産学・土壌肥料学・農業機械学・農産製造学・農業経済学などの多彩な分科諸科学によって構成される。そのほか林学・水産学・養蚕学・獣医学なども広い意味で農学を構成する。
近代農学の成立は農業の展開と深くかかわる。人類は採集・狩猟・漁労・牧畜に続いて、あるいはそれらと並行しながら、紀元前7000年から前6000年にかけて農耕段階に入ったといわれる。農業の発達につれてエジプト文明やシュメール文明といった巨大な文明が形成され、農業についての経験的知識の集積も進められた。とくに17~18世紀になると、西欧でも日本でも、農業についてのかなり体系的な書物が刊行されるようになる。
しかし、近代農学の基礎が固められたのは、ドイツのアルブレヒト・テーアによってである。テーアはイギリスの農業をモデルとし、自らの農業経営によって得た知識を集大成して、『合理的農業の基礎』(全四巻、1809~12)を取りまとめた。本書においてテーアは、農業とは貨幣獲得を目的とする一つの営業であるとし、合理的農業とは最高の純収益をあげる農業であるとした。そして、この目的を実現するために、農学は農業生産技術と農業経営の二つの面から農業を研究する学問であると説いた。
テーアを出発点とする近代農学は、自然科学の面で化学者リービヒによって、また社会科学の面で経済学者チューネンによって発展させられた。すなわち、リービヒは、植物の栄養は土壌中の鉱物質であって、土壌中に含まれる鉱物質中の最少の成分によって植物の生長が支配されるとする、いわゆる鉱物質説および最少養分律を唱えた。またチューネンは、自ら農場を経営しながら『孤立国』(全三部四巻、1826~63)をまとめ、市場からの距離に基づく差額地代によって、各種の農林業圏が同心円的に定まるとする、いわゆる「チューネン圏」を提唱した。
日本でも17世紀以降、多くの農書が出されたが、西欧に比して農学の基礎となる諸科学が立ち後れたために、近代農学として結実するに至らなかった。こうして明治以降、日本の農学は西洋農学を中心として発展したのである。
[坂本慶一]
『柏祐賢著『農学原論』(1962・養賢堂)』▽『飯沼二郎著『農業革命の研究――近代農学の成立と破綻』(1985・農山漁村文化協会)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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