フランス革命期の国民公会における左翼議員のグループで,議場内の高い位置にある座席を占めたのでこの名がつけられた。現在の政党とは異なって,メンバーの登録や規約などのない,ゆるやかなグループをなしていたにすぎないから,その人数を確定することはできないが,1792年9月に国民公会が召集された直後には,議員総数約750名のうち100名余りであり,93年には約300名ほどになったと考えられている。山岳派の主要な指導者は,ロベスピエール,ダントン,マラーなどであり,93年夏からはとくにロベスピエールの影響力が強くなった。山岳派はしばしばジャコバン派とも呼ばれるが,山岳派が国民公会内の議員のグループであるのに対して,ジャコバン派というのは議会外のジャコバン・クラブという団体のメンバーを指すので,両者は一応別個であり,山岳派に属する議員のなかにはジャコバン・クラブ以外のコルドリエ・クラブなどに加入している者もあった。しかし,93年以降には,ジャコバン・クラブはもっぱら山岳派を支持してその社会的基盤になったから,両者は表裏一体の関係にあったといえる。
山岳派は1792年の秋から右翼のジロンド派と激しく対立し,両派の中間には平原派または沼沢派と呼ばれる浮動的グループがあった。山岳派とジロンド派は,出身階層の点では大きな差異はなく,社会的な立場の点でも,ジロンド派がとくに貿易業者や大商人と強く結びついていたのに対して,山岳派はそれよりやや下の中産層と結びついていたという程度の差しかなく,両派はいずれも基本的にはブルジョアジーの利害を代表していた。だが,どのような方針で革命を遂行すべきかという革命の路線をめぐって,両派の方針は鋭く対立した。すなわち,ジロンド派がもっぱらブルジョアジーのみの利害を貫徹しようとしたのに対して,山岳派は革命遂行のためには民衆や農民と同盟することが不可避であると考え,とくにパリの民衆の力を結集して中央集権的な革命指導の方針をとるべきであると主張した。この方針に即して山岳派は93年5月末,パリの民衆運動の圧力を利用して国民公会からジロンド派議員を追放し,山岳派独裁と呼ばれる強力な政治体制を樹立した。山岳派独裁のもとでは,領主的諸権利の完全な無償廃棄の実現や,生活必需品の価格統制の実施など,農民や民衆のための政策がある程度まで行われ,国民公会内に設けられた公安委員会に権力が集中され,内外の反革命勢力から革命を防衛するための非常手段としていわゆる恐怖政治が断行された。だが,これらの措置が成功して反革命の危機が薄れるにつれて,ブルジョアジーは民衆への譲歩を拒むようになり,山岳派の内部で分派の争いが生じた。ロベスピエールは,最左翼の民衆運動を抑圧するとともに,右派のダントンらを処刑したが,こうした分派闘争の中で自己の基盤を失い,94年7月27日(テルミドール9日)に失脚して処刑された。これ以後,保守派が勝利を収めるようになり,山岳派は解体してその多くは処刑または追放された。
執筆者:遅塚 忠躬
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フランス革命期における政治党派。この派の議員たちが、国民公会の議席の高所を占めていたことに由来する。パリのジャコバン・クラブに関係し、国民公会成立、第一共和政発足の1792年9月ごろから、94年7月ごろまで活躍したジャコバン派の急進分子で、ロベスピエール、ダントン、マラーらがその代表的政治家。元来、ブルジョア共和主義者たちであるが、革命的な民衆勢力、とくにパリの手工業者や小商店主など、いわゆるサン・キュロットと結んで、革命を進展させ、またパリ中心の中央集権化を目ざした。まず国王ルイ16世の裁判と処刑を推進、ついで革命戦争の劣勢、反革命内乱、経済混乱などによる革命の危機に対処するため、制定したジャコバン憲法(1793年憲法)の実施を延期、国民総動員の非常体制をとりつつ、公安委員会などを中心に恐怖政治を敷く一方、民主的諸政策を行った。93年6月、政敵ジロンド派を粛清してからは独裁的な権力を握ったが、分派の対立によって弱体化し、94年7月末、ロベスピエール派没落によって勢力を失った。
なお、第二共和政(1848~52)下、急進的な共和主義国会議員たちも、この党派名をもってよばれる。
[山上正太郎]
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フランス革命期の国民公会の左翼議員グループ。議席の高い部分を占めたことにこの名称が由来。ジロンド派を追放して恐怖政治を樹立した。ダントン,マラー,ロベスピエールなどが主要人物。
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…93年1月に国王ルイ16世が処刑されたのち,第1次対仏大同盟の結成による戦局の悪化や反革命内乱の深刻化に直面して,革命を防衛し遂行するための強力な中央集権的統治が必要とされ,同年10月に,憲法によらない非常体制としての革命政府が樹立され,組織的な恐怖政治が行われることになった。ジロンド派を追放して議会(国民公会)の主導権を握った山岳派(ジャコバン派)は,議会内に設置された公安委員会に権力を集中し,革命遂行のための諸政策を強行すると同時に反対派の弾圧を強化したため,恐怖政治は山岳派独裁の武器になった。93年3月10日に創設されていた革命裁判所は,同年9月に制定された反革命容疑者法に基づいて大量に投獄された反対派(反革命的な貴族や聖職者,ジロンド派,反革命内乱参加者など)の多数を迅速に断頭台に送った。…
…1792年9月21日の第1回会議から95年10月26日の解散まで,3時期に分けられる。第1期は,約750名の議員のうち過半数を占める中間派(〈平原派la Plaine〉とか〈沼派le Marais〉と呼ばれた)をはさんで右派のジロンド派と左派の〈山岳派〉が対立した時期である。はじめジロンド派は山岳派に対して優勢であったが,対外戦争の敗北,国内の反革命の激化と社会経済危機などの内外の革命の危機に有効に対処しえず,しだいに中間派の支持を失い,また立憲君主派や王党派との妥協をはかったために,93年6月2日,パリ民衆の包囲のなかで議会から追放された。…
…フランス革命期,とくに1793年から94年にかけて,ジャコバン・クラブに属する革命家たちが抱いた思想および行動方針。政治的結社としてのジャコバン・クラブそのものは89年秋から94年末まで存在したが,その全期間を通じて一貫した方針というものはなく,革命の進行につれてジャコバン・クラブをリードする政治勢力は交替し,93年初めにジロンド派に代わって山岳派がジャコバン・クラブの主導権を握った。一般にジャコバン主義といわれるのは,この山岳派(とくにロベスピエール)が主導するようになってから94年テルミドール9日までの期間におけるジャコバン・クラブの人々の方針を指す。…
…すなわち,国境の危機を救うために全国から義勇兵がパリに参集したが,その義勇兵とパリの民衆は,出陣に先立って国内の敵を一掃する必要を痛感し,同年8月10日,王宮を襲ってついに王政を廃止させるにいたったのである。
【山岳派独裁】
92年8月10日は,革命の路線を大きく変えるいわば第2の革命であった。単に王政が廃止されただけではなく,ブルジョアジーと自由主義的貴族との同盟によって革命を妥協的な形で終結させようとする方式そのものが破産し,内外の強力な反革命勢力を前にして,ブルジョアジーは,民衆や農民の力を借りざるをえず,それらとの同盟によって革命を徹底的に推し進めるほかはなくなったのである。…
※「山岳派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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