フランスの国歌。作詞・作曲(1792)ともに革命軍ストラスブール隊の有能な将校であったルージェ・ド・リールClaude-Joseph Rouget de Lisle(1760-1836)。1792年4月に布告された対オーストリア戦争に際し,同年7月マルセイユからの義勇兵たちがこの歌を歌いつつパリ入城を果たして一躍全国に広まったところからこの名がある。95年に国歌として採択された。歌詞は子ども用の1節を含め全7節。もとは北方ライン軍団のための進軍歌として1792年4月26日夜に作曲,ストラスブール市長宅で初めて歌われ,《ライン軍に寄せる闘いの歌Chant de guerre pour l’armée du Rhin》のタイトルで同地で出版されてあったもの。第二帝政期(1852-70)には革命色を薄めようとの狙いから,ナポレオン3世の母ウジェーヌ・オルタンスが作曲に手をかしたとも伝えられる歌《シリアへの出発Partons pour la Syrie》が一時国歌として登用されたが,ナポレオン3世失権と同時にこの《ラ・マルセイエーズ》が復し,現在に至る。なおこの旋律は多くの作曲家により引用されており,とくにシューマンのピアノ曲《ウィーンの謝肉祭》,歌曲《二人の擲弾兵》,ワーグナーの歌曲《二人の擲弾兵》,リストの交響詩《英雄の嘆き》,チャイコフスキーの管弦楽序曲《1812年》,ドビュッシーのピアノ曲《花火》などの例がよく知られている。
執筆者:小林 緑
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フランスの国歌。フランス革命中、1792年4月に革命戦争が始まったとき、ドイツ国境に近いストラスブール市で、市長の要請により、原名『ライン軍軍歌』として、工兵士官ルージェ・ド・リールが作詩・作曲した。これは南フランスにも伝わり、マルセイユ市からの義勇兵たちが92年の夏にパリに広め、この名が生まれた。95年に国歌となったが、復古王政期や第二帝政下に禁止され、1879年、第三共和政時代にふたたび国歌に制定された。
[山上正太郎]
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フランス国歌。1792年ストラスブールの士官ルージェ・ド・リールが作詩,作曲。「ライン軍軍歌」と名づけられたが,同年夏マルセイユの連盟兵がパリにこれを歌って入ってきたため,この名が生まれた。
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…一つの国の内部でも,政体の変化が国歌に変化をもたらすことがある。フランス革命と結びついた《ラ・マルセイエーズ》がナポレオン3世の第二帝政時代に,皇帝の母によって作曲されたといわれる《シリアに向けて出発しよう》に替えられた。ソ連も革命後は,帝政時代の国歌を捨てたのはいうまでもない。…
…ゲーテとメッテルニヒはここの大学で学んでいる。1792年にルジェ・ド・リールが〈ライン軍軍歌〉(《ラ・マルセイエーズ》,現,国歌)を歌った最初の地でもある。1870年普仏戦争でドイツ軍に占領されてライヒスラントの役所がおかれ,1918年までドイツ領。…
…新大陸発見ののち,16世紀に一時にぎわったが,地中海の経済的効用は低下を続け,1660年ルイ14世への反乱と鎮圧,1720年のペスト大流行などもあって,没落に向かっていった。 フランス革命の際,多くのマルセイユ市民は革命側に投じたが,パリに赴いた市民たちが歌った行進歌が,のちに〈ラ・マルセイエーズ〉と呼ばれ,現在のフランス国歌となった。1830年のアルジェリアの植民地化,69年のスエズ運河開通は,地中海港湾としてのマルセイユに重要性を回復させた。…
※「ラマルセイエーズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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