二宮治重(読み)ニノミヤ ハルシゲ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「二宮治重」の解説

二宮 治重
ニノミヤ ハルシゲ


肩書
文相

生年月日
明治12年2月17日

出生地
岡山県

学歴
陸士(第12期)〔明治33年〕卒 陸大〔明治43年〕卒

経歴
歩兵第20連隊付となり、日露戦争従軍。大正7年軍務局課員、8年陸大教官兼参謀本部員、10年参謀本部課長、14年英国大使館付武官。参謀本部第2部長、同総務部長、昭和5年中将、参謀次長。6年宇垣一成内閣をめざす3月事件の首謀者となり、7年第5師団長となったが、皇道派から排撃され、9年中将で予備役。のち鮮満拓殖・満拓公社総裁となり、19年小磯国昭内閣の文相となったが、在職中に病死した。

没年月日
昭和20年2月17日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「二宮治重」の解説

二宮 治重
ニノミヤ ハルシゲ

明治〜昭和期の陸軍中将 文相。



生年
明治12(1879)年2月17日

没年
昭和20(1945)年2月17日

出生地
岡山県

学歴〔年〕
陸士(第12期)〔明治33年〕卒,陸大〔明治43年〕卒

経歴
歩兵第20連隊付となり、日露戦争に従軍。大正7年軍務局課員、8年陸大教官兼参謀本部員、10年参謀本部課長、14年英国大使館付武官。参謀本部第2部長、同総務部長、昭和5年中将、参謀次長。6年宇垣一成内閣をめざす3月事件の首謀者となり、7年第5師団長となったが、皇道派から排撃され、9年中将で予備役。のち鮮満拓殖・満拓公社総裁となり、19年小磯国昭内閣の文相となったが、在職中に病死した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「二宮治重」の解説

二宮治重 にのみや-はるしげ

1879-1945 明治-昭和時代前期の軍人
明治12年2月17日生まれ。参謀本部課長,イギリス大使館付武官などを歴任。昭和5年陸軍中将,参謀次長。6年宇垣内閣樹立をめざす三月事件計画参加。のち満州拓殖公社総裁などをつとめ,19年小磯(こいそ)内閣の文相。昭和20年2月17日死去。67歳。岡山県出身。陸軍大学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の二宮治重の言及

【三月事件】より

…前年10月桜会を結成した参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らは,31年2月第59議会が幣原喜重郎首相代理の失言問題で大混乱に陥ったのをみて,クーデタを遂行し宇垣一成陸相を首班とする内閣を樹立しようとはかった。建川美次参謀本部第2部長をはじめ二宮治重参謀次長,杉山元陸軍次官,小磯国昭軍務局長ら宇垣周辺の陸軍首脳部は橋本らに呼応し,積極的に画策をすすめた。計画は参謀本部支那課長重藤千秋大佐が中心となって作成し,右翼の大川周明,社会民衆党の赤松克麿,亀井貫一郎らとも連携,徳川義親から20万円の資金をえた。…

※「二宮治重」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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