陸軍内部で企図され、未遂に終わったクーデター事件。1931年(昭和6)2月幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)臨時首相代理は衆議院の答弁で、ロンドン海軍軍縮条約を天皇が承認したことを盾に批判を封じようとした。このいわゆる失言問題で議会は混乱した。それを背景に、橋本欣五郎(きんごろう)(参謀本部ロシア班長)をリーダーとする桜会の幕僚将校は、民間右翼の大川周明(しゅうめい)の協力と軍首脳部の賛同を得て、陸相宇垣一成(うがきかずしげ)を首班とする軍部政府樹立を計画、国家改造の推進を目ざした。杉山元(はじめ)(陸軍次官)、二宮治重(にのみやはるしげ)(参謀次長)、小磯国昭(こいそくにあき)(陸軍省軍務局長)、建川美次(たてかわよしつぐ)(参謀本部第二部長)らがこの計画に賛成したといわれ、資金は徳川義親(よしちか)(貴族院議員)が援助した。計画は、大川が無産政党と連絡して3月20日ごろを期して民衆1万人動員による対議会デモを実行、軍隊が議会保護の名目で議会を包囲し、民政党内閣を総辞職させ、宇垣内閣を実現させるというものであった。宇垣がのちになって参加を拒否したため計画は挫折(ざせつ)し、事件は闇(やみ)のなかに葬られたが、それは急進ファシズム運動の呼び水になり、同種の事件が頻発する契機をなした。
[榎本勝巳]
『中野雅夫著『橋本大佐の手記』(1963・みすず書房)』▽『今井清一他編『現代史資料4 国家主義運動1』(1963・みすず書房)』▽『田中隆吉著『裁かれる歴史』(1948・新風社)』
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1931年の日本陸軍によるクーデタ未遂事件。前年10月桜会を結成した参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らは,31年2月第59議会が幣原喜重郎首相代理の失言問題で大混乱に陥ったのをみて,クーデタを遂行し宇垣一成陸相を首班とする内閣を樹立しようとはかった。建川美次参謀本部第2部長をはじめ二宮治重参謀次長,杉山元陸軍次官,小磯国昭軍務局長ら宇垣周辺の陸軍首脳部は橋本らに呼応し,積極的に画策をすすめた。計画は参謀本部支那課長重藤千秋大佐が中心となって作成し,右翼の大川周明,社会民衆党の赤松克麿,亀井貫一郎らとも連携,徳川義親から20万円の資金をえた。計画では3月20日ごろ右翼・無産団体を動員して議会にデモをかけさせ,議会保護を名目として出動した軍隊の圧力により内閣を総辞職に追い込み,宇垣内閣を出現させる予定であった。しかし陸軍省側の中堅層が時機尚早として反対し,はじめ乗り気であった宇垣も,民政党の宇垣総裁擁立運動をみて変心し,中止を命じたといわれる。こうして計画は不発に終わり,秘密に付されたが,8月ごろ政界上層部に伝わり,大きな衝撃を与えた。この事件は軍部による最初のクーデタ計画であっただけでなく,政界上層や右翼,社会ファシストまでが加わった参加者の範囲の広いものであった。
→十月事件
執筆者:江口 圭一
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…若くしてウッチの〈新劇場〉支配人(1949‐61),のちワルシャワの〈国民劇場〉に移るが1968年に解任され,72年ウッチ〈大劇場〉に復帰するまでの4年間は冷遇された。理由は1968年2月末〈国民劇場〉のミツキエビチ作の古典詩劇《父祖の祭》の演出が〈反ソ的〉として上演禁止となったことから,〈三月事件〉へ発展したためであった。【工藤 幸雄】。…
… ゴムウカの政治指導は晩年しだいに権威主義的,抑圧的となった。いわゆるパルチザン派が台頭し,68年3月学生デモを契機として大規模なユダヤ人排斥運動が起こった(〈三月事件〉)。経済は改革の機を逸し,停滞気味となった。…
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