朝日日本歴史人物事典 「二条昭実」の解説
二条昭実
生年:弘治2.11.1(1556.12.2)
安土桃山・江戸前期の公家。二条晴良の長男,母は伏見宮貞敦親王の長女位子女王。元亀1(1570)年1月従三位。天正12(1584)年12月左大臣に任じられ,翌13年2月関白に昇った。3月豊臣秀吉が内大臣に任じられたため,左大臣を辞した。代わって左大臣に任官した近衛信尹が関白職をも望んだため,ふたりの間に軋轢が生じ,秀吉が裁定することになる。同年7月秀吉へ関白職を譲渡するに至った。元和1(1615)年7月17日江戸幕府は「禁中并公家諸法度」を発布。この法令は,前将軍徳川家康,将軍徳川秀忠,前関白昭実の3名連署で出された。現関白鷹司信尚 ではなく昭実が署判したのは,この法令作成に公家故実に詳しかった昭実と今出川(菊亭)晴季の両名が参画していたからであろう。同月28日,昭実は実に30年ぶりに関白職に還任,同5年7月14日これを辞し,その日に死去した。公家社会の故実に造詣が深く,奈良春日大社社司祐範は,日記で「御行儀御法度只御一人ニ残ルト云々,公家御法式近代之亀鑑也,将軍家ニモ一段御尊仰也」と彼の死を悼んでいる。
(藤田恒春)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報