禁中並公家諸法度(読み)キンチュウナラビニクゲショハット

デジタル大辞泉 「禁中並公家諸法度」の意味・読み・例文・類語

きんちゅうならびにくげ‐しょはっと【禁中並公家諸法度】

江戸幕府の法令。金地院崇伝こんちいんすうでん起草。元和元年(1615)制定。正式名称は禁中方御条目。17条からなり、皇室・公家門跡のありかたなどについて規定したもの。公家諸法度

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精選版 日本国語大辞典 「禁中並公家諸法度」の意味・読み・例文・類語

きんちゅうならびにくげ‐しょはっと【禁中並公家諸法度】

  1. 江戸時代の法令。金地院崇伝起草。正称「禁中方御条目」。元和元年(一六一五七月発布。江戸幕府朝廷や公家に対して直接的に規制を図ったもので、天皇の本分摂家・三公の席次や任免、改元、刑罰、門跡以下僧侶の官位など一七条から成る。幕末まで改訂されなかった。公家諸法度。
    1. [初出の実例]「禁中并公家諸法度」(出典:御当家令条‐二・禁中并公家諸法度・慶長二〇年(1615)七月)

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改訂新版 世界大百科事典 「禁中並公家諸法度」の意味・わかりやすい解説

禁中並公家諸法度 (きんちゅうならびにくげしょはっと)

江戸幕府が天皇と公家の行動を規制するために定めた法度。漢文体。大坂の陣直後の1615年(元和1)7月17日,京都二条城で大御所徳川家康,将軍秀忠,前関白二条昭実が連署した17ヵ条の本文を武家伝奏に渡す形式で発布された。当初は〈公家法度〉〈公家掟〉〈公家中諸法度〉などと呼ばれており,天皇を指す〈禁中〉という称呼が加わったのは17世紀後半である。〈天子諸芸能のこと,第一御学問なり〉とした第1条は著名であるが,第2条以下では,三公(太政大臣,左・右大臣)と親王の座次(ざなみ),三公摂関の任免,養子,武家の官位を公家のそれの員数外とすること,年号の定め方,天皇以下公家の衣服,諸公家の昇進の次第,廷臣の刑罰,僧侶の号や紫衣(しえ)勅許の条件などについて定めている。この法度は,天皇や公家を学問や儀式に専念させることによって国政に関与する余地を奪う目的で制定されたと一般に理解されているが,天皇,公家が権力を失ったのは古いことであり,14世紀末,室町幕府3代将軍足利義満のとき公家の昇進など朝廷内部のことに武家が介入する先例が成立した。家康による法度制定はこの先例を踏まえたものであり,法度の中には座次問題のように当時の公家の間では解決できず,その裁定が家康に公家の側から要請されていたものも含まれている。内容的にも,家康は公家,僧侶,儒者などに内外の古典や先例を調査させて個々条文を決定しており,総体としてこの法度は,天皇と公家が先例に従って宗教的行事や儀式を行うことで,当時一般に期待されていた社会的役割を果たすことを要請するものといえる。第1条の〈学問〉も天皇家の先例に関する知識という意味であって,これを現代の〈学問〉と同義と考えるのは誤解である。また第1条自体が,13世紀順徳天皇が皇嗣のために天皇の日常身辺に関するタブーと先例を解説した《禁秘抄》の一節のまる写しであり,家康が天皇に期待したのは,こうした知識に従って宗教的世界の統率者としての身辺を維持し,自然の運行と国土の安寧とを取りもつ役割であったことが示されている。
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百科事典マイペディア 「禁中並公家諸法度」の意味・わかりやすい解説

禁中並公家諸法度【きんちゅうならびにくげしょはっと】

江戸時代の朝廷公家を統制するための法令。正しくは禁中方御条目。公家諸法度とも。1615年崇伝の起草により徳川家康が制定。主として天皇の行為が細かく直接に規定され江戸時代を通じて朝廷対策の根本法となった。大名対策の根本法たる武家諸法度はしばしば改訂されたが公家諸法度は不変。
→関連項目以心崇伝江戸幕府紫衣事件法度法度・村掟

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「禁中並公家諸法度」の意味・わかりやすい解説

禁中並公家諸法度
きんちゅうならびにくげしょはっと

『公家諸法度』ともいう。元和1 (1615) 年7月 17日,江戸幕府によって制定された法令。 17ヵ条。起草者は金地院崇伝。幕府が「天子は御学問のこと第一」以下朝廷,公家の地位を確定したもので,朝廷の権威に対して武家の権威を確立した基本法。『武家諸法度』の場合と違って幕末まで改訂されることはなかった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「禁中並公家諸法度」の解説

禁中並公家諸法度
きんちゅうならびにくげしょはっと

江戸幕府が朝廷および公家を統制するために出した法令
禁中方御条目・公家諸法度ともいう。金地院崇伝 (こんちいんすうでん) が起草。1615(元和元)年発布。17条からなり,内容は「天子は学問を第一と心得べきこと」をはじめ,親王・公卿の席次,三公・摂関の任免,改元など諸般にわたっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「禁中並公家諸法度」の意味・わかりやすい解説

禁中並公家諸法度
きんちゅうならびにくげしょはっと

禁中并公家中諸法度

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世界大百科事典(旧版)内の禁中並公家諸法度の言及

【江戸幕府】より


【政策】
 国土の平和と繁栄を代償として諸身分が本来的に有していた権利・能力を制限ないし剝奪することで成立していた秀吉以来の支配体制を受け継いだ幕府の政策の基本は,対外的には異文化の侵入から国土を守り体面ある独立を維持し,対内的には諸大名を指揮して百姓,町人の生活を安定させることにあった。国土の繁栄に関係があると当時は一般的に考えられていた宗教と呪術を支配する朝廷や寺社に対しては,幕府は〈禁中並公家諸法度〉や〈諸宗寺院法度〉によって天皇と公家,神官,僧侶が宗教的生活を全うし祈禱や儀式をしきたりどおり行うことを要求した。鎖国は貿易管理の意義もあるが,それ以上に在来の宗教,文化とあまりにも異質なキリスト教文明の侵入により幕府の支配の根底がくずされることを防ぐものであり,琉球,朝鮮,オランダ人などの江戸参府の行列は幕府の統治能力を沿道の貴賤に示すデモンストレーションであった。…

【官位】より

…ただし,公家衆の官位といえども高位高官の場合は江戸幕府の干渉下にあり,武家の官位は実質的には幕府が叙任し朝廷はこれを認証するにとどまった。武家の官位については,徳川家康が1606年(慶長11)幕府の推挙をもって叙任するように奏請,11年には武家の官位は朝廷の官位の定員外とする旨を奏し,15年(元和1)制定の《禁中並公家諸法度》でこれを明文化し,〈武家の官位は公家当官之外たるへき事〉と規定している。その叙任の方法は,4代家綱時代まではまず朝廷に奏上しその後に幕府が叙任する例であったが,5代綱吉時代以後は幕府が叙任しその後に朝廷の位記口宣を申請するというものであった。…

【紫衣事件】より

…1627年(寛永4)7月,以心崇伝や老中土井利勝らは,大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度(1613年6月)や禁中並公家諸法度(1615年7月)に反してみだりになっているととがめた。しかるに翌春,大徳寺の沢庵宗彭,玉室宗珀,江月宗玩や妙心寺単伝士印らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため,江戸幕府は態度を硬化させ,29年7月,あくまで抵抗した沢庵を出羽国上山に,玉室を陸奥国棚倉に,単伝を出羽国由利に配流し,さらに,1615年(元和1)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪した。…

※「禁中並公家諸法度」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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