五馬庄(読み)いつまのしよう

日本歴史地名大系 「五馬庄」の解説

五馬庄
いつまのしよう

現天瀬町南部を中心とする地域に比定される。日田庄の内であったとされるが、史料上では広域通称名としてみえることが多く、近世に及ぶ。庄名は「豊後国風土記」にみえる五馬山との関連が指摘される。天瀬町出口の山中いでぐちのやまなか薬師堂の享徳二年(一四五三)一一月一五日銘鰐口に「日田郡五馬庄山中堂」とあるほか、同五馬市の玉来いつまいちのたまらい神社の応仁二年(一四六八)銘棟札、同所の金凝かなごり神社の文明六年(一四七四)正月銘の随身像にも庄名がみえ、後者には庄内一三村とある。

天正八年(一五八〇)と推定される四月二三日の大友義鎮感状(大友家文書録)に「五馬庄井手口松原村」とみえ、財津永三が筑前に敗走しようとした田北紹鉄(鑑重)井手口松原いでぐちまつばら(現大山町、井手口は現天瀬町出口)で追討したことなどを賞されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

企業の退職を希望する従業員本人に代わって退職に必要な手続きを代行するサービス。依頼者と会社の間に入ることで円滑な退職をサポートするとともに、会社への連絡などを代わりに行うことで依頼者の心理的負担を軽減...

退職代行の用語解説を読む