日田庄(読み)ひたのしよう

日本歴史地名大系 「日田庄」の解説

日田庄
ひたのしよう

現日田市の小野おの鶴河内つるがわち大肥おおひ夜明よあけ一帯を除く全域を主域とする庄園。一部は現日田郡に及ぶか。本家は鳥羽院御祈願所金剛心院、領家は北家藤原氏の流れをくむ水無瀬氏。平安後期以来、日田大蔵氏一族が実質的な庄園の支配者であった。日田郡司職次第(東京大学史料編纂所謄写本)によると、長寛元年(一一六三)日田永宗の時に金剛心院御領に立券庄号が行われたといい、郡司による寄進という形式をとった郡庄の典型例と考えられる。宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)に庄名がみえる。元暦元年(一一八四)七月焼打ちされた宇佐宮の仮殿造営のため当庄も一国平均役を課せられるが、文治年間(一一八五―九〇)に宇佐宮太大工の小山田貞遠が作成利用したこの指図によると、日田庄は置路甃六八丈五尺うち若宮鳥居のうち五丈のほか、若宮外殿一宇、国司屋一宇のうち西一間半、御湯殿と脇殿の中間甃一丈一尺うち五尺五寸などの九ヵ所を負担。当時の日田氏惣領次郎永秀は建久五年(一一九四)地頭職を与えられたが、追討使三河守源範頼の失脚に伴い領知が止められたという(日田郡司職次第)

豊後国弘安図田帳に日田郡五六〇町とあり、日田庄五〇〇町と大肥庄六〇町に分けられ、日田庄は四五〇町の本庄と二二町(一〇町二反とも)竹田たけだ別符、二二町(一二町とも)田島たしま由布ゆふ石井いしい今泉いまいずみ(のちの友田村内か)、六町の得善とくぜん(のちの庄手村内か)の別名に分けられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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