朝日日本歴史人物事典 「人見竹洞」の解説
人見竹洞
生年:寛永14.12.8(1638.1.22)
江戸前期の儒学者,漢詩人。名は節,一名(字も)宜卿,通称又七郎,友元,号は竹洞,鶴山など。本姓小野氏。野節と修す。禁裏の医師の子として京都に生まれる。幼年から江戸に出て林羅山に従学。徳川家光時代,世子家綱の御伽役となり,のち幕儒に任ぜられ剃髪。『続本朝通鑑』編纂に参画,法眼に叙せられ,延宝2(1674)年家督采地700石を相続する。公務では朝鮮通信使応接(1682),武家諸法度(天和令)成稿(1683),諸家諸寺への朱印状作りなどに携わり,木下順庵らとの『武徳大成記』編述も徳川綱吉時代の業績のひとつである。このように代々の将軍の信任を得て幕府の修史,書記役を主としたが,諸大名旗本の間,あるいは林家を介した学者文人連中との交流の中心にもいて,詩文も名勝に寄せたものや贈答の作が多い。日本化した詩文とはいえ,むしろ徂徠学以後の文事よりも発想や方法に自在さが窺える。<著作>『人見竹洞詩文集』(国会図書館蔵写本『竹洞全集』)<参考文献>田代黒滝「人見友元伝」(『下野史談』6巻3号)
(宮崎修多)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報