付知村(読み)つけちむら

日本歴史地名大系 「付知村」の解説

付知村
つけちむら

[現在地名]付知町 下浦しもうれ宮の上みやのうえ上大起かみおごせ下大起しもおごせ上倉屋かみくらや中倉屋なかくらや下倉屋しもくらや上大門かみだいもん広島野ひろしまの向山むかいやま寺の下てらのした下大門しもだいもん大山おおやま・あみだ・山本やまもと一の宮いちのみや藤山ふじやま中屋なかや新田しんでんひら本町ほんまち小栗山こぐりやま菓子上かしあげ桜屋さくらや米屋こめや学園がくえん秋津あきつ上広屋かみこうや中広屋なかこうや寺山てらやま下広屋しもこうや中田なかだ若宮わかみや野尻のじり稲荷平いなりだいら稲荷いなり広野ひろのおこし白沢しらさわ・あらま・松原まつばら鳥屋脇とやき中野なかの

付知川が南流し、ほぼ川に沿って南北なんぼく街道(飛騨道)が通る。南は田瀬たせ(現福岡町)、北は加子母かしも(現加子母村)に接する。近世には北部の山は尾張藩の御林山で、厳しい掟で守られていた。文安五年(一四四八)四月の南禅寺仏殿用材印案(新南禅寺文書)に「みのゝ国つけち山」とあり、付知山の用材が運び出されている。関ヶ原戦後遠山友政(苗木藩)領となり、慶長郷帳に村名がみえ、高二八四石余とある。元和元年(一六一五)尾張藩領となり、正保郷帳では田方一九九石余・畑方八四石余で、ほかに新開田畑高一一二石余がある。明暦覚書では人数一千四〇、馬一一四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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