日本大百科全書(ニッポニカ) 「以東底引網漁業」の意味・わかりやすい解説
以東底引網漁業
いとうそこびきあみぎょぎょう
第二次世界大戦前から戦後の昭和20年代中期にかけて、東経130度(現在は東経128度30分)以東の日本近海を操業区域とした中型機船底引網漁業をいい、以西底引網漁業に対応した呼称である。この漁業は、大正初期の動力船導入期から始まり、全国的に操業されてきた歴史の長い漁業で、漁獲量の面でも重要な地位を占めてきた。一艘(そう)引と二艘引とがあるが、主体は一艘引で、漁獲対象となる魚種は、底生魚類であるスケトウダラをはじめホッケ、イカナゴ、カレイ類、メヌケ類、ヒラメ類などが多い。
底引網漁業が漁獲対象とする底生魚類は、浮き魚類に比較して一般に移動が小さく漁獲されやすいため、乱獲される危険の高い魚種が多く、過去に幾多の規制や取締りを受けており、また減船等の整理もしばしば行われてきた歴史がある。1921年(大正10)に操業区域制限のない機船底引網取締り規則が制定され、知事の許可漁業となり漁獲トン数は50トン以下と規定されたが、隻数の制限がなかったため、操業隻数が増加の一途をたどり、ほかの漁業種目と競合し紛争が絶えなかったことから、1952年(昭和27)に大臣許可漁業に移行された。1924年、機船底引網漁業が、東経130度以東と以西に区別されるが、東経130度線が採用された理由としては、それ以東の水域(とくに本州東北地方など)での沿岸漁業との対立が深刻なことなどがあり、さまざまな制度的制約を受け発展が抑制された。たとえば、起業許可制、増トンの許可制、漁獲物の陸揚げ地の制限、大臣許可制への移行、夏季操業の休業、夜間操業の禁止、新規着業不許可、許可トン数の縮減などである。その後、日中戦争による食糧増産のため減船計画を中止し、1943年(昭和18)に知事許可漁業となったが、1947年にふたたび大臣許可漁業に移行。第二次世界大戦後の1951年GHQ(連合国最高司令官総司令部)の勧告により減船整理を実施し、翌1952年には小型底引網漁業(15トン以下)との区別を明示し大臣許可漁業の「中型機船底引網漁業」となった。その後も、1953~1954年にカツオ・マグロ延縄(はえなわ)漁業への転換、1954~1956年には北洋サケ・マス流し網漁業への転換、1960年以降の北転船への転換などの減船整理が行われ、1962年の漁業法改正により、「沖合底引網漁業」と名称変更された。
[添田秀男・吉原喜好]