伊佐早庄(読み)いさはやのしよう

日本歴史地名大系 「伊佐早庄」の解説

伊佐早庄
いさはやのしよう

高来たかく郡内に置かれた庄園で、その前身は国衙領であったと考えられる。彼杵そのき郡の郡庄とされる彼杵庄と境を接し(正和二年一一月日「深堀孫房丸重申状案」深堀文書)、また長崎半島東部およびその先のかば島をも含み(康安元年一一月二九日「重広所領譲状」同文書)、現諫早いさはや市を中心に小長井こながい町・飯盛いいもり町・長崎市・野母崎のもざき町などにわたる一帯に比定される。史料上は「いさはや」「いさはい」のほか「いさはゑのしやう」などともみえ(応安元年四月七日「薩摩肥前両国檀那願文」熊野本宮大社文書)

〔公領から私領へ〕

「宇佐大鏡」に「伊佐早村」とみえ、藤井宮時の私領であった同村内の田畠が、豊前宇佐宮の神宮寺供僧とみられる権検校の僧円昭に譲られ、さらに同宮の大宮司の宇佐公通に譲与されてその私領になったという。これは平安末期のこととされる。貞応元年(一二二二)五月に上洛した宗像大宮司の氏国は七月一三日付で鎌倉幕府から「高来郡伊佐早庄」を宛行われており(訂正宗像大宮司系譜)、筑前宗像むなかた社領になっている。文永一〇年(一二七三)八月三日の幕府より所領の注進を求められた宗像六郎入道浄恵(宗像氏業)は、伊佐早庄永野ながの(現諫早市)五分二(三二町)地頭職などについては、文永元年五月一〇日の和与中分の下知状があると報告している(同一一年六月一八日「沙弥浄恵文書注進状案」宗像神社文書)。正応五年(一二九二)八月一六日の河上宮造営用途支配惣田数注文(河上神社文書)では庄園分として「伊佐早庄」とあり、田数二五三町で、肥前国一宮河上かわかみ(現佐賀県大和町)の造営料が賦課されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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