日本歴史地名大系 「伊原間村」の解説 伊原間村いばろーまむら 沖縄県:八重山諸島石垣市伊原間村[現在地名]石垣市伊原間(いばるま)平久保(ひらくぼ)半島基部の船越(ふなくやー)(舟越)とよばれる地峡の北と南に広がる村。船越では東の太平洋(ナータ浜)と西の東シナ海(伊原間湾)の間がわずかに二百数十メートルで、平久保半島を迂回せずに小舟を担いで越したのが地名の由来という。両島絵図帳は石垣島のうち「狭キ所壱町四拾間ハ、東川平間切はんたけはまより西同間切はんたけ入江之汀迄」と記しており、船越付近は古く「はんたけ」とよばれていた。村域北部にはトムル岳(二二六・八メートル)・はんな岳(二三八・九メートル)の山塊があり、北麓の太平洋側にトムル崎、東シナ海側に北(きた)の崎がある。両岬の北、フタナカとよばれる東西幅約一キロの地峡の北が村域北端となっている。南部には東に金武(きんぶ)岳(二〇一・六メートル)、西に大浦(おおうら)山(一九二・五メートル)があり、その間を大浦(おおうら)川が北流して伊原間(いばるま)湾に注ぐ。金武岳東麓の玉取(たまとり)崎は正保国絵図にも「たまとり崎」とある。古く村域南部は桴海(ふかい)村に、北部は平久保(ぺーぶぐ)村に含まれた。康熙五二年(一七一三)の「琉球国由来記」にみえる桴海村の半嵩(はんだき)御嶽は「はんたけ」とよばれた船越付近にあったとみられ、その地域まで桴海村の範囲であったと考えられる。この御嶽は雍正七年(一七二九)桴海から伊原間に移されたという(八重山島年来記)。元来伊原間は北の崎の南東にあった内野(うちいぬ)(内之)村という集落一帯の称で、伊原間に移されたという半嵩御嶽も近年まで同所にあった。同五年の八重山島由来記には平久保村の小村として伊原間村がみえ、集落は未申(南西)の方角を向き、長さ一町四間・横五四間とある。同一二年頃伊原間村には広い可耕地があったため、近くの富盛(とうむりい)崎と安良(やつさ)崎に石垣(いしやなぎい)・登野城(とうぬすく)両村の百姓一四〇人ほどが仮住いをして耕作していた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by