デジタル大辞泉
「小村」の意味・読み・例文・類語
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こ‐むら【小村】
- 〘 名詞 〙 小さい村里。人家の少ない村。〔ロドリゲス日本大文典(1604‐08)〕
- [初出の実例]「夕立のとりおとしたる小村哉」(出典:俳諧・文政句帖‐五年(1822)六月)
しょう‐そんセウ‥【小村】
- 〘 名詞 〙 小さい村。こむら。
- [初出の実例]「小村の人家に、灯火が見へたぞ」(出典:中華若木詩抄(1520頃)上)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
小村
こづちむら
[現在地名]大槌町小鎚・須賀町・栄町・桜木町
小鎚川の中・下流域を占める。東は海、南は片岸村・栗林村・橋野村(現釜石市)、北は大槌村・金沢村。小鎚村・小土村とも記した。海辺を南北に浜街道が通り、街道沿いに八日町・四日町が開かれ、交易・駅所として賑った。大槌街道が八日町で分離し、小鎚川をさかのぼって遠野に向かう。
中世以来大槌氏の支配地であったと伝えるが(阿曾沼興廃記)、大槌氏の滅亡後全村盛岡藩の蔵入地となる。元和二年(一六一六)の南部利直請取状(盛岡浜田文書)によると、慶長一九年(一六一四)大槌御蔵納米として二ツ八分半にあたる一四一駄三斗四升六合を納めており、高二九七石余であったことが知られる。
小村
こむら
[現在地名]国分市広瀬一―四丁目・広瀬・福島二丁目
福島村の南に位置し、南は海(鹿児島湾)に面する。近世には国分郷に属した。浦方の村で、地内の小村町は浦町であった。天文一七年(一五四八)本田董親が清水城に拠って島津氏に反旗を翻した折、反董親方となった上井氏・敷根氏らは当地や浜之市(現隼人町)などの浦々を焼払ったという(「島津貴久譜」旧記雑録など)。元亀三年(一五七二)一月一九日、肝付氏は多数の兵船を仕立てて当地を襲ったが、島津方は捕らえた岸良将監以下二四人を斬首してこれを防いでいる(「島津義久譜」旧記雑録)。天正元年(一五七三)の夏、北郷時久は都名(現川内市)を島津朝久に渡し、その替りとして「小村」および嶽名(現桜島町)を与えられた。しかし当村は清水城の島津以久に公役を勤めていたため、翌二年閏一一月一九日には時久の使者が上井覚兼に当村の知行に不安があると申出ている(「上井覚兼日記」同日条)。
小村
こつなぎむら
[現在地名]一戸町小繋
西岳より流れる小繋川流域の山間に位置し、東は小鳥谷村・平糠村、北は出ル町村・小友村・女鹿村。慶長年間(一五九六―一六一五)と思われる一〇月二一日の南部利直黒印状(盛岡一方井文書)によれば、「御鷹ひつせをい四人」を出すよう、一戸村や沼宮内村(現岩手郡岩手町)とともに命じられている。元和元年(一六一五)五月八日の南部利直書状(宝翰類聚)に「梅内とはつ者ニ候由 惣別せをやミ候てひよん者ニ候 久々こつなきニ居候者悪事可仕候哉」とある。正保国絵図に村名がみえ、高二五石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二八石余で、七ヵ年平均の免は一ツ五分五厘五毛。
小村
おさばむら
[現在地名]山口市大字下小鯖・大字上小鯖
現山口市の東南部に位置する大村。北から東・南の三方は標高二〇〇―六〇〇メートルの山地が連なり、西北がわずかに開けて長野・矢田両村へ平野が続く。山口宰判に属した。
地名の由来は、東南に隣接する佐波郡の佐波本郷、すなわち大佐波に対する枝村の小佐波と考えられ、古くは「こさば」といったらしい。
鎌倉時代は鎌倉の鶴岡八幡宮領の荘園であったが(鶴岡八幡宮文書)、南北朝期には大内氏によって押領されたらしい。貞治四年(一三六五)銘の松崎天満宮(現防府市)再建棟札に、小鯖中左近・小鯖西郷亮三郎の文字があり、当時は小鯖庄内は中郷・西郷などに分れていたらしい。
小村
こつなぎむら
[現在地名]二ッ井町小繋
米代川の北岸、対岸に麻生村がある。近世には秋田郡に属した。
慶長二年(一五九七)の浅利頼平領内村数覚書(秋田家文書)に、「こつなき村 畠 家三」とある。中世は浅利氏領、天正中期頃安東(秋田)氏の支配になる。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に虎繋村二五石、寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では当高四四石四升余。
秋田・山本両郡の境にあたり、「六郡郡邑記」に「山本郡との境、右郡之内仁鮒村、比井野村、荷上場村との境七倉山峯切籠山、高岩山峯切境」とあり、伊能忠敬の「測量日記」にも、「小繋村駅次なり 則秋田郡の初、是より谷間田地野原もなし」とみえる。
小村
おもれむら
[現在地名]高松市小村町
下田井村・上田井村の東に位置し、吉田川流域の西側平野に立地。「全讃史」は「面礼」と記す。一の坪・五の坪などの条里遺称地名を残す、古くから開けた農耕地帯。寛永国絵図では前田郷のうちに村名が載る。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高四〇四石余。同一九年の小物成は綿八五匁(高松領小物成帳)。南・北に分れて史料にみえることもある。天保九年(一八三八)の御巡見一条万覚書(木田郡誌)によれば戸数一一八・人数五六七。
小村
こむら
[現在地名]西区押部谷町木幡・秋葉台一―三丁目・桜が丘東町三丁目・同六丁目
明石川上流に位置し、西は栄村、北東は摂津国八部郡衝原村(現北区)。南東端では木見・木津両川が合流して明石川になる。応仁元年(一四六七)八月一一日のしんくう檀那売券(肥塚文書)に「こむら」とみえ、当地と栄村の押部殿に関する広峯神社(現姫路市)の檀那が六〇〇文で売却されている。
小村
こむら
[現在地名]嬉野町小村
雲出川と三渡川に挟まれた平野部に位置し、川北村の東にあたる。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「小村之郷」とみえ、石高四二〇・三八石とある。江戸時代は和歌山藩白子領と津藩領の入組地となり、白子領の郷組は小船江組であった。慶安郷帳(明大刑博蔵)には和歌山藩領一三七・〇一石、津藩領二八五・三一石とあり、うち田二四七・四四二石、畑一七四・八七八石で、干損所があった。元禄一一年(一六九八)に開設された新井によって灌漑を受け、干損がなくなった(南紀徳川史)。
小村
こびえむら
[現在地名]青垣町小稗
中央を小稗川が流れ、東は惣持村。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高一二五石余・畠高七四石余、林少しあり、日損・水損少しあり。柏原藩領。承応年間(一六五二―五五)から延宝二年(一六七四)まで幕府領、延宝三年柏原藩領となる。天和二年(一六八二)より幕府領、貞享三年(一六八六)旗本小田切領となる。元禄六年(一六九三)から紀伊和歌山藩領となり、同一二年から旗本能勢と幕府の相給(「寛政重修諸家譜」・鶴牧藩大概帳など)。元禄郷帳によると高二一三石余、領主は同じ(国立史料館本元禄郷帳)。
小村
おむら
[現在地名]東吉野村大字小
高見・四郷・日裏三川の合流地点下流に立地。小牟漏岳(六八五・七メートル)の南麓を占める。「古事記」に出る雄略天皇の歌に「み吉野の 袁牟漏が嶽に 猪鹿伏すと 誰ぞ 大前に奏す」とあり、「大和志」にはこれを小牟漏岳にあてて「小村上方青峯喬聳渓水遶麓山中有祠」と記す。「日本書紀」の歌では「嗚武羅能陀該」となっていて、不詳。
「大和志」は「国栖荘」のうちとする。
小村
こぼきむら
[現在地名]英田町中川
香合村の南、河会川筋に立地する。「東作誌」によれば、南の上山村から分村したという。また「」の字は美作国にのみ通用するものとあり、「山に副たる川縁をさしてホキと云」と記す。正保郷帳に村名がみえ、田五一石・畑四六石。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高三〇石余・開高一八石余、村位は下。
小村
こむれ
[現在地名]小原村東郷
現小原村の北東にあり、標高四五五メートルの小村峠がそびえる。飯野(現藤岡町)から遊屋―一ノ野を通り明智(現岐阜県)に抜ける中央道が通る。寛永郷帳では岡崎藩領、明治元年(一八六八)上総大多喜藩領である。慶安三年(一六五〇)の三州賀茂郡小原之内岡崎領小村検地帳(鈴木早苗氏蔵)には屋敷一二筆の面積と持主が書上げられている。
小村
こむら
[現在地名]松山市小村町
松山平野の南平坦部に位置する農村。東は中野村、西は河原村、南は東方村、北は河原村に接し、重信川を隔てて高井村(浮穴郡)に相対する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「小村 日損所、小川有」とある。
小村
おむら
[現在地名]上越市高和町
保屋村の北東に位置する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所織田扱此外四方分小村 下」とみえ、本納八七石一斗一升・縄高一六〇石二斗七升一合、家一〇軒・三四人。正保国絵図によると高一七三石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の小村の言及
【集落】より
…(1)農場または家屋敷farmstead,homestead マイツェンの孤立荘宅に当たる。(2)小村hamlet ドイツのワイラーWeilerまたはドルッベルDrubbelに相当し,村落villageよりも小規模で,多くは6~8戸よりなり,小規模のため教区を形成しないもので,教会や学校は通常もたない。(3)クラッヘンclachan 20戸までの小農民からなる不規則な平面形をもった集落で,大きいものは村落と変わらないものもある。…
※「小村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」