小鎚川の中・下流域を占める。東は海、南は
中世以来大槌氏の支配地であったと伝えるが(阿曾沼興廃記)、大槌氏の滅亡後全村盛岡藩の蔵入地となる。元和二年(一六一六)の南部利直請取状(盛岡浜田文書)によると、慶長一九年(一六一四)大槌御蔵納米として二ツ八分半にあたる一四一駄三斗四升六合を納めており、高二九七石余であったことが知られる。
福島村の南に位置し、南は海(鹿児島湾)に面する。近世には国分郷に属した。浦方の村で、地内の小村町は浦町であった。天文一七年(一五四八)本田董親が
現山口市の東南部に位置する大村。北から東・南の三方は標高二〇〇―六〇〇メートルの山地が連なり、西北がわずかに開けて
地名の由来は、東南に隣接する
鎌倉時代は鎌倉の
松山平野の南平坦部に位置する農村。東は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…(1)農場または家屋敷farmstead,homestead マイツェンの孤立荘宅に当たる。(2)小村hamlet ドイツのワイラーWeilerまたはドルッベルDrubbelに相当し,村落villageよりも小規模で,多くは6~8戸よりなり,小規模のため教区を形成しないもので,教会や学校は通常もたない。(3)クラッヘンclachan 20戸までの小農民からなる不規則な平面形をもった集落で,大きいものは村落と変わらないものもある。…
※「小村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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