日本歴史地名大系 「石垣市」の解説 石垣市いしがきし 沖縄県:八重山諸島石垣市面積:二二八・九一平方キロ石垣島全域と無人の尖閣(せんかく)諸島を含む日本最西端・最南端の市。明治一二年(一八七九)の廃藩置県当時、市域には石垣(いしやなぎい)間切の石垣(いしやなぎい)・新川(あらかー)・名蔵(のーら)・崎枝(さきだ)・川平(かびいら)・桴海(ふかい)の六ヵ村と、大浜(ほーま)間切の登野城(とうぬすく)・大川(ふーがー)・大浜(ほーま)・平得(ぴいさい)・真栄里(まいざとう)の五ヵ村、宮良(めーら)間切の宮良(めーら)・白保(しいさぶ)・桃里(とーざとう)・盛山(むりやー)・伊原間(いばろーま)・野底(ぬすく)・平久保(ぺーぶぐ)の七ヵ村があった。一八九六年石垣・大浜・宮良三間切と与那国島・尖閣諸島をもって八重山郡が成立、翌九七年の間切島吏員規定により間切は廃止となったが、県統計書などではその後も使用された。一九〇八年沖縄県及島嶼町村制の施行で八重山郡は特別に郡一円が一括して八重山村となった。しかし一郡一村では区域が広大で行政上不便であったため、一四年(大正三年)八重山村を四ヵ村に分村、石垣島には石垣(いしがき)・新川(あらかわ)・名蔵(なぐら)・崎枝(さきえだ)・川平(かびら)・桴海(ふかい)・登野城(とのしろ)・大川(おおかわ)の西半部八ヵ字からなる石垣(いしがき)村と、大浜(おおはま)・平得(ひらえ)・真栄里(まえざと)・宮良(みやら)・白保(しらほ)・桃里(とうざと)・盛山(もりやま)・伊原間(いばるま)・野底(のそこ)・平久保(ひらくぼ)の東半部一〇ヵ字からなる大浜(おおはま)村が成立、尖閣諸島は石垣村登野城に属した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石垣市」の意味・わかりやすい解説 石垣〔市〕いしがき 沖縄県西部,八重山諸島の石垣島にある市。1947年市制。1964年大浜町を編入して 1島 1市となった。市名は近世以来の間切(まぎり。行政区画)名に由来する。一般に石垣というとき,中心市街地の登野城地区,大川地区,石垣地区,新川地区の 4地区からなる四箇(しか)をさす。琉球王朝の頃から八重山諸島の行政,商業,文化の中心。明和8(1771)年の八重山地震津波では約 1万2000人を失った。第2次世界大戦では戦災に加えマラリアの被害が大きかった。大戦直後,仮自治政府が置かれた。雄大な自然と豊富な亜熱帯性植物群に恵まれ,戦災から免れた街路に沿った石垣,フクギの屋敷林,寄棟赤瓦家屋が素朴で美しい。新川地区の海岸は糸満漁民定住の漁業集落で,漁獲も多く,水産加工業が行なわれる。肉牛飼育も行なわれ,市街地北方の台地ではサトウキビ,タバコ,パイナップルなどを産する。製糖業とパイナップル缶詰業が盛ん。伝統的工芸品に指定された八重山上布,八重山ミンサーが有名。石垣港は整備が進み,沖縄島と八重山諸島の中継地として重要。南部に空港があり,那覇のほか,宮古島,多良間島,与那国島,波照間島などの諸島と連絡している。1979年に発表された大型の新石垣島空港建設計画は,サンゴ礁保護などを訴える環境団体らの強い反対にあい,計画変更を余儀なくされた。観光資源が多く,国の重要文化財の旧宮良殿内(きゅうみやらどんち),国指定史跡に川平貝塚,フルスト原遺跡,国指定名勝に宮良殿内庭園,石垣氏庭園,川平湾および於茂登岳(おもとだけ),国指定天然記念物に荒川のカンヒザクラ自生地,平久保のヤエヤマシタン,宮良川のヒルギ林,米原のヤエヤマヤシ群落がある。島の約 31%が西表石垣国立公園に属する。面積 229.15km2(尖閣諸島の面積 5.53km2を含む)。人口 4万7637(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by