日本歴史地名大系 「宮里村」の解説 宮里村なーざとうむら 沖縄県:沖縄島北部名護市宮里村[現在地名]名護市宮里(みやざと)一丁目・同三―七丁目・宮里・為又(びいまた)・中山(なかやま)名護(なぐ)間切の中央部西寄りに位置し、東は大兼久(ぽーがにく)村、南は名護(なご)湾に臨む。ナーザトゥまたはミャーザトゥとよばれ、ナトゥ(湊)が村名の語義とされる。集落は名護湾に面する砂地に立地し、北側に丘陵地と東屋部(ひがしやぶ)川が造る低湿地が広がる。小字ピルギ(比留木原)はかつてヒルギ(マングローブ)が密生し、小字ナザキ(名座喜原)は湿地の雑草ハイキビが茂る土地であった。故地はウジャ(宇座原)のフルナントゥ(古湊)とされる。 宮里村みやざとむら 鹿児島県:川内市宮里村[現在地名]川内市宮里町隈之城(くまのじよう)郷西手(にしで)村の西にあり、西は高江(たかえ)郷高江村、北は西流する川内川を隔てて高城(たき)郡水引(みずひき)郷宮内(みやうち)村。宮里の地名は八幡新田宮の旧社地であったことに由来するなどと伝え、保延元年(一一三五)一〇月二五日の院主石清水権寺主大法師某下文(旧記雑録)にみえる宮里郷の遺称地。近世には隈之城郷に属した。文禄四年(一五九五)九月三日、米良勝右衛門は宮里一所高三五九石余を打替えられ(「伊集院幸侃・本田三清連署証状」旧記雑録)、同年一〇月七日には北郷時久に宮里村高一千一二七石余が宛行われた(「伊集院幸侃・本田三清連署返知目録」同書)。 宮里村なーざとうむら 沖縄県:沖縄島中部具志川市宮里村[現在地名]具志川市宮里(みやざと)・赤道(あかみち)高江洲(たけーし)村の南西にあり、北東は兼箇段(かにかだん)村。ナーザトゥとよばれる。絵図郷村帳では勝連(かつちん)間切のうちに「見里村」とある。乾隆二年帳、「琉球国由来記」では具志川(ぐしちやー)間切のうちとして宮里村がある。「中山伝信録」で同間切のうちにみえる「田崎」村は当村のことと考えられる。「球陽」の尚穆王一〇年(一七六一)条には具志川間切の宇堅(うきん)・江洲(いーし)・宮里の三村をもとの地に移すとあり、当村の集落は初め石大那原にあったが、前年風水が悪いとの判断により同原に移した。 宮里村なーざとうむら 沖縄県:沖縄島中部沖縄市宮里村[現在地名]沖縄市宮里(みやざと)一―三丁目・宮里・美里(みさと)一丁目美里(んざとう)村の南にあり、西は越来(ぐいーく)間切安慶田(あぎだ)村・照屋(ていーら)村。ナーザトゥとよばれる。美里(んざとう)間切に属する。絵図郷村帳には越来間切のうちに宮里村とみえる。脇地頭は名島として嘉慶一三年(一八〇八)から道光元年(一八二一)まで宮里按司朝恒(向氏小禄家二代)が与えられ(向姓小禄家家譜)、少し不明の後、同七年から同九年まで陳有憲・宮里親雲上(陳氏仲本家一三世)、続いて同一〇年からは陳天福・宮里親雲上(同家一四世)と久米村系の陳氏仲本家が続くのを確認できる(陳姓仲本家家譜)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by