朝日日本歴史人物事典 「伊東甲子太郎」の解説
伊東甲子太郎
生年:天保6(1835)
新選組参謀,のちに御陵衛士の首領。名は武明,通称大蔵,甲子太郎,摂津。変名は宇田兵衛。常陸志筑(茨城県新治郡)の鈴木忠明と母こよの長男。鈴木大蔵と称し,配下鈴木三樹三郎は実弟。小野圭次郎の『伯父伊東甲子太郎武明』によれば,江戸深川佐賀町の旗本伊東精一に北辰一刀流を学び,病死した師の遺言で伊東の跡目を継いだというが,小山松勝一郎著『清河八郎』の「玄武館出席大概」には道場持ち伊東誠一郎とあり,師とされた旗本のほうも「柳営補任」に,伊東誠一郎の名で慶応年間(1865~68)に生存の記録がある。師に関する記述の歯車は噛み合わない。元治1(1864)年新選組参謀となるが,近藤勇,土方歳三と思想的見解を異にして分離,山陵奉行戸田大和守忠至の配下となり,高台寺党の異名をとる。以後薩摩と連携して勤王運動に奔走。近藤,土方に疎まれ,七条油小路で斬殺。勤王専一の分離といいながら,身分は忠至配下の幕臣であるなど疑問が多い。<参考文献>小野圭次郎『新選組覚え書』
(釣洋一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報