朝日日本歴史人物事典 「伊能穎則」の解説
伊能穎則
生年:文化2(1805)
幕末・明治初期の神官,国学者,歌人。通称,三右衛門,三造など。号蒿村,梅宇(雨)。古樸にして時世に適さないの意で人が「天孫降臨時人」と呼んだのをまた号とした。下総国香取郡佐原村(佐原市)の呉服商の家に生まれた。神山魚貫に国学を学ぶ。嘉永1(1848)年江戸に出て,小山田与清,井上文雄,平田銕胤らに学ぶかたわら自らも家塾を開いて教授した。同5年『香取四家集』を編集刊行。これは楫取魚彦,永沢躬国,沢近嶺,椿仲輔といった香取出身の歌人の歌を集めたものである。翌年佐原に帰り,香取尚古館学師,香取神宮神職を勤めた。明治1(1868)年維新後の東京に出て新政府の神祇官を勤め,翌年大学大助教となり,『令義解』を明治天皇に進講した。8年香取神宮少宮司。著書に『大日本史名称訓』『香取鹿島二宮祭神説』などがある。<参考文献>「伊能穎則伝」(『風俗画報』169号)
(白石良夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報