日本歴史地名大系 「伊自良庄」の解説
伊自良庄
いじらのしよう
伊自良村を遺称地とする皇室領庄園。地頭は八田氏。建久二年(一一九一)一〇月日の長講堂領目録(島田文書)に庄名がみえ、一月一日に使用する御簾三間・畳五枚・垂布一段・中間御厩舎人装束二具などが、一年の課役とされていた。鎌倉前期の領家は入道右大臣家(花山院忠雅)で、以後東方については応永年間(一三九四―一四二八)まで花山院流に伝領された。当庄の年貢絹七〇疋は八月彼岸用途に充てられていたが、その一部は早くから京都長講堂における修行のために割かれていたようで、西方は長講衆の知行下に置かれるようになり、応永年間まで伝領されていった(応永一四年三月日「長講堂領目録写」八代恒治氏旧蔵文書)。また、年月日未詳の六条殿修理料支配状写(同文書)によると、当庄は長講堂の東対六間のうちの東端四間の修理を課せられている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報