朝日日本歴史人物事典 「伊達秀宗」の解説
伊達秀宗
生年:天正19.12(1591.1)
江戸時代初期の宇和島藩(愛媛県)祖,政宗の庶長子。生母は飯坂宗康の娘(新造御方,心月妙円)。幼名兵五郎。慶長1(1596)年豊臣秀吉の諱を賜り秀宗と名乗り,従五位下侍従に叙任。19年12月伊予宇和島10万石に封ぜられ,元和1(1615)年3月入国。8年遠江守,寛永3(1626)年従四位下。明暦3(1657)年7月致仕,2代宗利が襲封したが,5男宗純へ吉田3万石を分知。歌集2巻がある。ある年参勤交代のため船で江戸へ向かう途中,難破の危険に遭い,秀宗乗船の船のみ岸に寄せようとしたが,「独リ生ルモ何カセン,必ス臣下ノ船ト共ニスヘシ」といい,常に家臣と共にあることを心掛けていたと伝えている。元和6年,秀宗は政宗から付けられた家老山家公頼を政宗に相談なく死罪に処したことにより,政宗の怒りをかい勘当となった(8年勘当を解く)。一方政宗はこれを理由に宇和島10万石の返上を幕府に申し出ている。政宗が宇和島藩をどのようにみていたかが,端的に現れた事件といえよう。なお,山家公頼はのち和霊明神として祭られた。
(齋藤鋭雄)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報