伊達秀宗(読み)だてひでむね

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

伊達秀宗
だてひでむね

[生]文禄1(1592)
[没]万治1(1658).6.8.
江戸時代前期,宇和島藩の祖。伊達政宗の長男。初名は秀弘。文禄3 (1594) 年豊臣秀吉に仕え,慶長1 (96) 年従五位下侍従,豊臣の姓を授けられた。同 19年伊予国宇和島 10万石に封じられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

伊達秀宗 だて-ひでむね

1591-1658 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)19年9月25日生まれ。伊達政宗の長男。慶長元年6歳で豊臣秀吉の猶子となる。19年父政宗とともに大坂冬の陣に出陣,その功により徳川秀忠から伊予(いよ)(愛媛県)宇和郡10万石をあたえられ,宇和島藩主伊達家初代となった。明暦4年6月8日死去。68歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

伊達秀宗

没年:万治1.6.8(1658.7.8)
生年:天正19.12(1591.1)
江戸時代初期の宇和島藩(愛媛県)祖,政宗の庶長子。生母は飯坂宗康の娘(新造御方,心月妙円)。幼名兵五郎。慶長1(1596)年豊臣秀吉の諱を賜り秀宗と名乗り,従五位下侍従に叙任。19年12月伊予宇和島10万石に封ぜられ,元和1(1615)年3月入国。8年遠江守,寛永3(1626)年従四位下。明暦3(1657)年7月致仕,2代宗利が襲封したが,5男宗純へ吉田3万石を分知。歌集2巻がある。ある年参勤交代のため船で江戸へ向かう途中,難破の危険に遭い,秀宗乗船の船のみ岸に寄せようとしたが,「独リ生ルモ何カセン,必ス臣下ノ船ト共ニスヘシ」といい,常に家臣と共にあることを心掛けていたと伝えている。元和6年,秀宗は政宗から付けられた家老山家公頼を政宗に相談なく死罪に処したことにより,政宗の怒りをかい勘当となった(8年勘当を解く)。一方政宗はこれを理由に宇和島10万石の返上を幕府に申し出ている。政宗が宇和島藩をどのようにみていたかが,端的に現れた事件といえよう。なお,山家公頼はのち和霊明神として祭られた。

(齋藤鋭雄)

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世界大百科事典内の伊達秀宗の言及

【宇和島藩】より

…伊予国(愛媛県)宇和郡宇和島に藩庁を置いた外様中藩。豊臣秀吉の四国征伐後,宇和郡は1587年(天正15)戸田勝隆,95年(文禄4)藤堂高虎が領主となり,高虎は板島丸串城を本城として築城した。1608年(慶長13)富田信高が領主となり,15年(元和1)伊達政宗の庶長子秀宗が宇和郡10万石の領主として入部し,以後廃藩まで伊達氏9代の治世が続いた。秀宗は18‐35年(元和4‐寛永12),父政宗の隠居料として3万石を割き,この間宇和島藩は7万石であった。…

【山家清兵衛】より

…1615年(元和1)伊達政宗が子秀宗につけた宇和島藩の惣奉行。実名公頼。家禄1000石。20年6月30日夜,藩主秀宗の密命により暗殺された。その理由は,所領10万石のうち3万石を公頼の献策により政宗の隠居料として割いたことと,大坂城修復工事などにおいて藩内反対派が讒訴(ざんそ)したことによる。その後,天災や関係者の遭難などが公頼の御霊のたたりとされ,53年(承応2)山頼和霊(やまよりわれい)社(和霊神社)が建てられ,和霊信仰がひろまった。…

※「伊達秀宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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