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宇和島藩 うわじまはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

宇和島藩
うわじまはん

古くは板島藩という。江戸時代伊予国 (愛媛県) 宇和郡宇和島地方を領有した藩。関ヶ原の戦い後慶長5 (1600) 年藤堂高虎が同国国府に転じて以来戸田氏,富田氏がしばらく歴任,同 18年富田氏除封,翌 19年仙台藩主伊達政宗の子秀宗がこの地に 10万石を受け,板島を宇和島と改め,以後廃藩置県まで伊達氏が在封した。

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百科事典マイペディアの解説

宇和島藩【うわじまはん】

伊予国宇和郡宇和島(現,愛媛県宇和島市)を城地とした藩。宇和島は中世には板島(いたじま)といい,戦国期には丸串(まるぐし)城の麓に城下町を形成。板島を含む宇和郡10万余石は1587年から戸田勝隆,1595年から藤堂高虎(一部は太閤蔵入地),1608年から富田信高が領有。

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

うわじまはん【宇和島藩】

江戸時代伊予(いよ)国宇和郡宇和島(現、愛媛県宇和島市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は明倫館(めいりんかん)。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の四国征伐のあと、この地は戸田勝隆(かつたか)、藤堂高虎(とうどうたかとら)、富田信高(のぶたか)と領主が変わり、1615年(元和(げんな)1)に伊達政宗(だてまさむね)の長男秀宗(ひでむね)が10万石で入封(にゅうほう)、以後は明治維新まで伊達氏による藩政が9代続いた。5代藩主の村候(むらとき)は、享保の飢饉で打撃を受けた藩財政を立て直すため、倹約令の制定、紙の専売化、藩校内徳館(明倫館の前身)の創設など一連の改革を行って財政再建を成功させた。また、幕末四賢侯(しけんこう)の一人といわれる8代藩主の宗城(むねなり)は、公武合体派の有力大名として活動、藩の西欧化と富国強兵を進めたほか、高野長英(ちょうえい)、村田蔵六(ぞうろく)を抜擢(ばってき)するなど名藩主と称された。1871年(明治4)の廃藩置県宇和島県となり、その後、神山(かみやま)県を経て、73年愛媛県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

うわじまはん【宇和島藩】

伊予国(愛媛県)宇和郡宇和島に藩庁を置いた外様中藩。豊臣秀吉の四国征伐後,宇和郡は1587年(天正15)戸田勝隆,95年(文禄4)藤堂高虎が領主となり,高虎は板島丸串城を本城として築城した。1608年(慶長13)富田信高が領主となり,15年(元和1)伊達政宗の庶長子秀宗が宇和郡10万石の領主として入部し,以後廃藩まで伊達氏9代の治世が続いた。秀宗は18‐35年(元和4‐寛永12),父政宗の隠居料として3万石を割き,この間宇和島藩は7万石であった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宇和島藩
うわじまはん

伊予国(愛媛県)宇和郡地方を領有した外様(とざま)藩。1614年(慶長19)伊達政宗(だてまさむね)の庶長子秀宗(ひでむね)が伊予国宇和郡10万石の領主となり、翌年板島丸串(いたじままるぐし)(宇和島)城を居城として成立した。1618~1635年(元和4~寛永12)秀宗は政宗の隠居料として3万石を割き、1657年(明暦3)五男宗純(むねずみ)に吉田藩3万石を分知(ぶんち)して7万石であった。1696年(元禄9)3代宗贇(むねよし)は表高(おもてだか)を10万石に高直しをした。1620年(元和6)には秀宗が惣奉行(そうぶぎょう)山家(やんべ)清兵衛の成敗を命じる事件があり、清兵衛はのちに寃罪(えんざい)と認められ、和霊(われい)神社に祀(まつ)られた。正保(しょうほう)検地、寛文(かんぶん)検地ののち藩制は整備され、鬮持(くじもち)制という特有の土地制度が施行され、強権をもつ庄屋(しょうや)制も完成した。享保(きょうほう)の飢饉(ききん)後財政が窮乏し、5代村候(むらとき)の寛保(かんぽう)~宝暦(ほうれき)期(1741~1764)の改革により体制は再建された。天明(てんめい)・寛政(かんせい)期(1781~1801)以降ふたたび財政は窮乏し、庄屋は豪農化して村方(むらかた)騒動の続発をみた。7代宗紀(むねただ)は文政(ぶんせい)・天保(てんぽう)期(1818~1844)の殖産興業を軸とした改革を成功させた。それは佐藤信淵(のぶひろ)の経済学の導入や威遠(いえん)流砲術の確立を含んでいた。8代宗城(むねなり)はさらに富国強兵策を進め、また幕末四賢侯の一人として、一橋(ひとつばし)派、公武合体派の有力大名として活動した。国産には木蝋(もくろう)、和紙、干鰯(ほしか)などがある。藩学は1747年(延享4)内徳館(ないとくかん)として創設され、敷教館(ふきょうかん)、明倫館(めいりんかん)と改称された。嘉永(かえい)年間(1848~1854)には高野長英(ちょうえい)、村田蔵六(ぞうろく)(大村益次郎(ますじろう))が来藩して蘭学(らんがく)が栄え、軍事、医学の近代化に貢献した。[三好昌文]
『『新編物語藩史 第10巻』(1977・新人物往来社)』

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世界大百科事典内の宇和島藩の言及

【伊予国】より

…太閤検地における伊予国の総石高は40万石であった。土地制度では宇和島藩の鬮持(くじもち)制(1673‐1743),松山・今治両藩の地坪(じならし)制のように,近世前期に農民の耕地の平均化をはかる村落共同体維持のための制度があった。伊予国の百姓一揆は約110件,全国的にも多発地域に入る。…

【伊達宗城】より

…伊予国宇和島藩8代藩主。旗本山口直勝の次男で,伊達宗紀(むねただ)(春山)の養子となる。…

【百姓網】より

…浦方百姓=漁民による網漁の経営形態で,単なる漁網の種類ではない。近世の漁村では農村同様,百姓身分の構成に変りはないが,宇和島藩,吉田藩にみられる百姓網は漁業年貢,諸役を負担し,村の地先漁場を占有利用する浦方百姓のうち,網を世襲的に持っている村役人を除く他の漁民に,臨時的に許可された網漁経営である。それは,漁村にあって漁場占有利用権の弱い小漁民が行う小網漁で,旅網(たびあみ)にも開放された村地先の一部入会漁場で,特権的網漁の間隙に共同網,村網として操業された。…

【山家清兵衛】より

…1615年(元和1)伊達政宗が子秀宗につけた宇和島藩の惣奉行。実名公頼。…

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