宇和島藩(読み)うわじまはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇和島藩」の意味・わかりやすい解説

宇和島藩
うわじまはん

伊予国(愛媛県)宇和郡地方を領有した外様(とざま)藩。1614年(慶長19)伊達政宗(だてまさむね)の庶長子秀宗(ひでむね)が伊予国宇和郡10万石の領主となり、翌年板島丸串(いたじままるぐし)(宇和島)城を居城として成立した。1618~1635年(元和4~寛永12)秀宗は政宗の隠居料として3万石を割き、1657年(明暦3)五男宗純(むねずみ)に吉田藩3万石を分知(ぶんち)して7万石であった。1696年(元禄9)3代宗贇(むねよし)は表高(おもてだか)を10万石に高直しをした。1620年(元和6)には秀宗が惣奉行(そうぶぎょう)山家(やんべ)清兵衛の成敗を命じる事件があり、清兵衛はのちに寃罪(えんざい)と認められ、和霊(われい)神社に祀(まつ)られた。正保(しょうほう)検地、寛文(かんぶん)検地ののち藩制は整備され、鬮持(くじもち)制という特有の土地制度が施行され、強権をもつ庄屋(しょうや)制も完成した。享保(きょうほう)の飢饉(ききん)後財政が窮乏し、5代村候(むらとき)の寛保(かんぽう)~宝暦(ほうれき)期(1741~1764)の改革により体制は再建された。天明(てんめい)・寛政(かんせい)期(1781~1801)以降ふたたび財政は窮乏し、庄屋は豪農化して村方(むらかた)騒動の続発をみた。7代宗紀(むねただ)は文政(ぶんせい)・天保(てんぽう)期(1818~1844)の殖産興業を軸とした改革を成功させた。それは佐藤信淵(のぶひろ)の経済学の導入や威遠(いえん)流砲術の確立を含んでいた。8代宗城(むねなり)はさらに富国強兵策を進め、また幕末四賢侯の一人として、一橋(ひとつばし)派、公武合体派の有力大名として活動した。国産には木蝋(もくろう)、和紙、干鰯(ほしか)などがある。藩学は1747年(延享4)内徳館(ないとくかん)として創設され、敷教館(ふきょうかん)、明倫館(めいりんかん)と改称された。嘉永(かえい)年間(1848~1854)には高野長英(ちょうえい)、村田蔵六(ぞうろく)(大村益次郎(ますじろう))が来藩して蘭学(らんがく)が栄え、軍事、医学の近代化に貢献した。

三好昌文]

『『新編物語藩史 第10巻』(1977・新人物往来社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「宇和島藩」の意味・わかりやすい解説

宇和島藩 (うわじまはん)

伊予国(愛媛県)宇和郡宇和島に藩庁を置いた外様中藩。豊臣秀吉の四国征伐後,宇和郡は1587年(天正15)戸田勝隆,95年(文禄4)藤堂高虎が領主となり,高虎は板島丸串城を本城として築城した。1608年(慶長13)富田信高が領主となり,15年(元和1)伊達政宗の庶長子秀宗が宇和郡10万石の領主として入部し,以後廃藩まで伊達氏9代の治世が続いた。秀宗は18-35年(元和4-寛永12),父政宗の隠居料として3万石を割き,この間宇和島藩は7万石であった。45-47年(正保2-4)の正保検地の後,57年(明暦3)秀宗が隠居して2代宗利が襲封した。このとき秀宗は五男宗純に吉田藩3万石を分知し,宇和島藩はふたたび7万石となった。70-72年(寛文10-12)の寛文検地(内(うちならし)検地)によって鬮持(くじもち)制を実施した。これは耕地の交換分合を伴う農民階層(本百姓・半百姓・四半百姓,無縁)の固定を目的とし,同時に貢租体系と庄屋制の確立をめざした。この検地後,藩は十組支配(御荘(みしよう),津島,城下,川原淵,山奥,野村,多田,山田,矢野,保内)を確立し,郡奉行の下に代官を各組に置いて農民を支配した。庄屋役は庄屋無役地という雑税免除の特権地と合力夫・田植役などの夫役徴発権をもって農民に君臨し,それは村方騒動の多発する原因となった。1696年(元禄9)3代宗贇(むねよし)は幕府に出願して10万石高直しを行い,表高の回復と家格の維持をはかった。享保の大飢饉後,藩体制は弛緩し,5代村候(むらとき)は寛保~宝暦期の改革を行った。村候は三百諸侯中屈指の良主といわれた。化政期の藩財政の窮乏の後,7代宗紀(むねただ)は文政・天保期の改革を行い,木蠟などの積極的殖産興業策を展開した。8代伊達宗城(むねなり)は幕末四賢侯の一人に数えられる公武合体派の有力大名であり,弘化~安政期以降強兵政策を展開し,高野長英らを来藩させた。9代宗徳のとき廃藩を迎え,宇和島県となる。
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百科事典マイペディア 「宇和島藩」の意味・わかりやすい解説

宇和島藩【うわじまはん】

伊予国宇和郡宇和島(現,愛媛県宇和島市)を城地とした藩。宇和島は中世には板島(いたじま)といい,戦国期には丸串(まるぐし)城の麓に城下町を形成。板島を含む宇和郡10万余石は1587年から戸田勝隆,1595年から藤堂高虎(一部は太閤蔵入地),1608年から富田信高が領有。高虎は丸串城を近世的城郭に改修,城下町を整備。1613年宇和郡は幕府領となるが,翌1614年伊達政宗の庶長子伊達秀宗(ひでむね)に与えられる。秀宗は1615年に丸串城に入り,この頃に板島を宇和島と改称,丸串城も宇和島城とよばれるようになる。以後外様大名の伊達氏が藩主を継ぎ,9代伊達宗徳(むねえ)のときに廃藩置県。伊達氏の表高は初め10万2000余石(うち3万石は一時伊達政宗の隠居料),1657年支藩伊予吉田藩3万余石を分知して7万余石,1696年の高直しを経て10万400余石。寛文年間(1661年−1673年)の検地後,鬮(くじ)によって耕地を交換分合して農民に耕作させる特有の地割制度,鬮持制を実施(1743年廃止)。5代村候(むらとき)は藩政改革を進め,殖産興業を奨励,〈三百諸侯中屈指の良主〉といわれた。8代宗城(むねなり)は幕末の政局で一橋慶喜擁立派・公武合体派として活躍,〈四賢侯〉の一人に数えられる。

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藩名・旧国名がわかる事典 「宇和島藩」の解説

うわじまはん【宇和島藩】

江戸時代伊予(いよ)国宇和郡宇和島(現、愛媛県宇和島市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は明倫館(めいりんかん)。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の四国征伐のあと、この地は戸田勝隆(かつたか)、藤堂高虎(とうどうたかとら)、富田信高(のぶたか)と領主が変わり、1615年(元和(げんな)1)に伊達政宗(だてまさむね)の長男秀宗(ひでむね)が10万石で入封(にゅうほう)、以後は明治維新まで伊達氏による藩政が9代続いた。5代藩主の村候(むらとき)は、享保の飢饉で打撃を受けた藩財政を立て直すため、倹約令の制定、紙の専売化、藩校内徳館(明倫館の前身)の創設など一連の改革を行って財政再建を成功させた。また、幕末四賢侯(しけんこう)の一人といわれる8代藩主の宗城(むねなり)は、公武合体派の有力大名として活動、藩の西欧化と富国強兵を進めたほか、高野長英(ちょうえい)、村田蔵六(ぞうろく)を抜擢(ばってき)するなど名藩主と称された。1871年(明治4)の廃藩置県で宇和島県となり、その後、神山(かみやま)県を経て、73年愛媛県に編入された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宇和島藩」の意味・わかりやすい解説

宇和島藩
うわじまはん

古くは板島藩という。江戸時代,伊予国 (愛媛県) 宇和郡宇和島地方を領有した藩。関ヶ原の戦い後慶長5 (1600) 年藤堂高虎が同国国府に転じて以来戸田氏,富田氏がしばらく歴任,同 18年富田氏除封,翌 19年仙台藩主伊達政宗の子秀宗がこの地に 10万石を受け,板島を宇和島と改め,以後廃藩置県まで伊達氏が在封した。この間,明暦3 (57) 年伊達宗純に吉田藩3万石を分知,元禄9 (96) 年 10万石に復した。伊達氏は外様,江戸城大広間詰。幕末の藩主伊達宗城 (むねなり) は公武合体派として活躍した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「宇和島藩」の解説

宇和島藩
うわじまはん

江戸時代,伊予(愛媛県)宇和郡を領した藩
1615年仙台藩主伊達政宗の子秀宗が封ぜられ,以後廃藩置県まで伊達氏が領主で10万石。領内では鬮持 (くじもち) 制度(地割制度の一つ)が実施され,幕末には蠟・紙など国産品の専売制を行った。幕末の藩主宗城 (むねなり) は公武合体派として活躍し,王政復古後も議定・大蔵卿などを歴任した。

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デジタル大辞泉プラス 「宇和島藩」の解説

宇和島藩

伊予国、宇和島地方(現:愛媛県宇和島市)を領有した藩。当地は中世には板島と呼ばれた。丸串城には藤堂高虎らが入ったが、1614年、伊達政宗の子、秀宗(ひでむね)が10万石で入封、以後幕末まで伊達氏が藩主をつとめた。8代藩主の伊達宗城(むねなり)は藩主引退後も公武合体派の中心人物として政治活動を行った。

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世界大百科事典(旧版)内の宇和島藩の言及

【伊予国】より

…太閤検地における伊予国の総石高は40万石であった。土地制度では宇和島藩の鬮持(くじもち)制(1673‐1743),松山・今治両藩の地坪(じならし)制のように,近世前期に農民の耕地の平均化をはかる村落共同体維持のための制度があった。伊予国の百姓一揆は約110件,全国的にも多発地域に入る。…

【伊達宗城】より

…伊予国宇和島藩8代藩主。旗本山口直勝の次男で,伊達宗紀(むねただ)(春山)の養子となる。…

【百姓網】より

…浦方百姓=漁民による網漁の経営形態で,単なる漁網の種類ではない。近世の漁村では農村同様,百姓身分の構成に変りはないが,宇和島藩,吉田藩にみられる百姓網は漁業年貢,諸役を負担し,村の地先漁場を占有利用する浦方百姓のうち,網を世襲的に持っている村役人を除く他の漁民に,臨時的に許可された網漁経営である。それは,漁村にあって漁場占有利用権の弱い小漁民が行う小網漁で,旅網(たびあみ)にも開放された村地先の一部入会漁場で,特権的網漁の間隙に共同網,村網として操業された。…

【山家清兵衛】より

…1615年(元和1)伊達政宗が子秀宗につけた宇和島藩の惣奉行。実名公頼。…

※「宇和島藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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