日本歴史地名大系 「会賀牧・福地牧」の解説
会賀牧・福地牧
えがのまき・ふくちのまき
会賀牧は古くに
仁平二年(一一五二)と推定される七月六日の右少弁藤原資長書状(興福寺本信円筆因明四相違裏文書)に、野宮雑事について「会賀・福地以下皆悉令勤仕」とみえ、同年八月二六日の河内国司下文案(醍醐雑事記)によれば、会賀・福地両牧の住人が志紀郡内山城醍醐寺領田畑を請作しながら、御牧(後院領)の権威をかさにきて年貢を未進したと訴えられている。文治二年(一一八六)四月八日の醍醐寺文書目録(醍醐雑事記)にも「郡庄御佃兼次所進券文四通内 (中略)一枚福地御牧外題 長寛二年八月五日」とみえるので、牧住人と醍醐寺の係争は度々起こっていたようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報